わたくし天狗てんぐさんをきになったのはまったくこのときからでございます。もっと天狗てんぐもうしましても、それには矢張やは沢山たくさん階段かいだんがあり、たちのよくない、修行しゅぎょう未熟みじゅく野天狗のてんぐなどになると、神様かみさま御用ごようどころか、つまらぬ人間にんげん玩具おもちゃにして、どんなに悪戯いたずらをするかれませぬ。そんなのはわたくしとしても勿論もちろん大嫌だいきらいで、皆様みなさまるべくそんな悪性あくせい天狗てんぐにはかかりわれぬことをこころからおねがいたします。が、こまったことに、わたくしどもがこちらから人間にんげん世界せかいのぞきますと、つまらぬ野天狗のてんぐ捕虜とりこになっている方々かたがた随分ずいぶん沢山たくさんられますようで……。おおきなお世話せわかはぞんじませぬが、わたくしかげながら皆様みなさまめにこころいためて[#「痛めて」は底本では「痛めで」]るのでございます。くれぐれも天狗てんぐとお交際つきあいになるなら、できるだけつよい、ただしい、立派りっぱ天狗てんぐをおえらびなさいませ。まごころから神様かみさまにおねがいすれば、きっとすぐれたのをお世話せわしてくださるものとぞんじます……。

 

 

小桜姫物語

 

和歌山県和歌山市に玉津島神社という有名な神社があり、そこにはひふみ神示に登場する火の神である 稚日女君の神様が祀られています。

この神様は麗しく温厚にして慈悲深い女神様なのですが、この神社に参拝に行った際にちょっと面白いことがありましたので書いてみたいと思います。

 

 

玉津島は古来より風光明媚なことで有名でとても景色の良い場所です。その辺はご自身で調べて頂くとして、私が神社参拝を終えたあとに神社の裏近くに奠供山てんぐやまという山があるということを知り、せっかく来たのだしここらは景色も良いから登ってみようと山の入り口まで歩いていきました。

 

 

すると神様から登ってはならんとのお告げがあり、「えぇ~、せっかく来たのに~」と思ったので押して無理矢理登ろうとしました。私はこの手の神様からのお告げを幻聴かもしれないと思うことが多く、神霊の存在は信じていますし、死後の世界や物質性を脱した存在の様々な階層の世界があることはわかっていても、私自身の霊的な能力に関してはかなり懐疑的です。

 

 

ちょっと霊感がある人は霊の言うことなら何でもかんでも信じてしまう傾向にありますが、私は滅茶苦茶疑っています。そういった人たちのことをなぜ霊の話を正しく 審神者もせずに頭から鵜呑みにしてしまうのか不思議に思います。道ばたで知らないおっさんに言われたことを100%信じるか?と言われたら多くの人はノーと答えるでしょう。私も同じでただそれが人間なのか、霊なのかの違いだけです。霊の言うことなら100%信じてしまう人は詐欺に引っ掛かりやすい人かもしれません。他人の姿に化けたり、騙すことに長けた人間界でいう詐欺師みたいな霊は実際たくさんいます。

 

 

真なる神は人間への愛情ゆえに人間にわからないように、しかし確実に力を持って現れます。意味もなく人を驚かせたり、からかったりするのは大抵低級霊なので関わるだけ損をしますし時間の無駄でもあります。

 

 

そういう次第なので私は自分の霊的能力に全く自信がないため自分の周りでそういうことが起こっても実生活に対して意味を持たないものに関しては懐疑的です。

 

 

この山に登ろうとした時も神様から登ってはならんと言われても幻聴の類かもと信じていませんでした。ですのでお構いなしにズンズン進んでいくと突然お腹がギリギリと痛みだし遂には立ってすらいられなくなりました。

 

 

蹲って神様に「これマジで登っちゃ駄目なんですか?」と聞くと今の私の進歩段階ではまだ早いとのことなので、これ以上お腹が痛くなっても困りますし、仕方ないと思って引き返すことにしました。

 

天狗に関してはあまり良くないものがたくさんいるというを前もって知っていたので、そういう関係なのかもしれません。私が悪い影響から自分を守れるほどまだ進歩していないということなのだと思います。

 

 

ただ天狗さんの名誉のために言っておくと神様のご用に使われるような良い天狗もたくさんいます。全部が全部悪いものではありません。それは丁度人間にも良い人と悪い人がいるのと同じです。悪いというよりは分別がないというほうが適切かもかもれません。

 

動物が年経て霊界に入ってしたものが天狗と呼ばれ、これとは別に人間から天狗の世界に入った者と山人と呼ぶそうです。詳しくは寅吉物語や宮地水位の異境備忘録などに書かれているので読んで見て下さい。冒頭にあるように小桜姫の神様も天狗に関してはあまり良いことを言っていません。これは元が動物なので仕方ないのかもしれません。

 

 

そんなわけで来た道戻ろうとすると途端に腹痛が治ったのですが、心の中では「いや…、でもせっかく来のだしやっぱり登ってみよう。お腹が痛いのも偶然かもしれないし。」と思っていました。

 

 

そこで来た道を戻ると見せかけて「神様、それじゃあ今日は帰ります……からのぉ~」とクルリと身を翻して再び山の方へ歩を進めると僅か1歩で再び立っていられないほどさっきよりも強くお腹がギリギリと痛みだして蹲って再び神様から登ってはならんと言われました。あ、これはマジだなと思い「わかりましたから、腹を痛くするの止めて下さい」とお願いして、今度こそは本当に帰ることにするとやはり腹痛は治りました。

 

ちなみに私はめったにお腹が痛くなることはありません。言葉で言っても私が信じないので、腹痛というわかる形で教えて下さったのだと思います。

 

 

ここまでやられないとわからないというのが私の大したことない霊的な能力を表わしています。山に行って霊から登ってはならんと言われても、その霊がいかなる神か審神者すれば良いのですが、いちいち日常生活でそんなことは全部が全部やってられません。

 

またそこまで詳細に会話出来るというわけでもありません。霊との対話は霊側にも次元を超えて相手に自分の意思を何らかの方法で伝える技術が必要であり、受け取る方もまた同様です。地球の反対側の人間と連絡を取る方法は色々ありますが、それなりの道具やシステムを利用しないと出来ないのと同じで、霊の世界と物質の世界はさらに離れているのでかなり難しいのが実情です。

 

よく霊の声を聞いたとか見えたという人の多くは、それが地上でなら地縛霊か幽体の残り滓を見ているのだと思います。地縛霊になっているような霊が進化した高級霊なわけがありません。しかし例外として特別な使命を持った高級霊が地上に降りてくるというケースもあるので難しいところです。

 

 

 

霊的に未熟な人間は、というよりは防御法を持たない人間は悪い霊のいる場所にいくと憑依されたり、いたずらされたりすることが良くあります。少なくとも悪いものと関わりを持ってしまいます。私個人的は天狗さんと人生であまり関わりがなく、ほぼ全部龍神さんの手引きばかりで天狗さんとは話したことすらありません。

 

 

ただどこかの山に入ったときにその山にいる山人さんや天狗さんに遠くから挨拶したり、神社の当番(警備員みたいな感じの)で派遣されてくる天狗さんに遠くから挨拶するだけです。

 

 

天狗さんは酒豪や議論好き、派手好きで目立つことが好きな者が多いと言いますが、私は酒は一滴も飲みませんし議論も嫌いです。目立つのも面倒ごとが増えるだけなので神様のために致し方なしというケース以外は避けるタイプです。

 

 

出口王仁三郎も酒は飲まず、お客さんで酒豪の人が来ると(自分が一緒に飲めないので)満足させられないから残念に思うという趣旨のことを何かの本で読んだことがあります。出口王仁三郎いわく龍神系が多いと言われる大本では、元は酒好きでも修行すると動物霊や天狗の憑依が離れてそれまで大好きだった酒が嫌いになるという話は聞いたことがありますし、似たような奇談雑誌を始めたくさんあります。

ひふみ神示にも憑きものが暴飲暴食をしているという趣旨のことが書いてあります。

 

 

代わりに龍神さんは酒を飲まず水浴びが好きと言いますが、私もなぜか水浴びが好きで真冬の1月でも2月でも冷水のシャワーを浴びます。よく苦行で真冬に水浴びする修行がありますが、そういうニュアンスではなく単にさっぱりして気分が良いからです。

ほかに龍神さんの持つ特性と私個人の特性が似ている部分はありますが、精神統一して指導して下さる方の多くが龍神さんであり、指導的な意味合いでの天狗さんとの霊的な関わりは私個人が認識している意味ではゼロです。

 

人間の趣味嗜好は守護霊や憑依している霊の影響を大いに受けると言いますが、これは全くその通りであると言えます。

 

 

 

ただこれも天狗さんと龍神さんの名誉のために再び言っておきますが、龍神だからと言って全部が全部良いものではありません。天狗や龍神を、ひいては霊全体を全部良いとか悪いとかで括ることは出来ません。

 

 

人間に善人と悪人がおり、また個性も千差万別であるように天狗さんや龍神さんもそうです。ただ大雑把な傾向があるというだけの話で、しかしそれにも例外が多々あります。人間にも変わり者やはみ出し者と呼ばれる類いの人は珍しくありません。

 

 

この話に別に落ちがあるわけではないのですが、私個人に霊的な能力があまりないのを残念に思います。しかしはっきりと霊の声を聞けたとしても、あるいは見えたとしてもやはり疑って掛かるでしょう。

 

 

道ばたで知らないおっさんに声を掛けられたらまず懐疑的になり、話の内容がうさんくさいならなおさらです。狐や狸の類いや悪行を積んだ邪霊は姿すら化けることが出来ます。葉っぱのお金の話は嘘ではありませんし、もっと規模の大きい幻覚を見せることも出来ます。こういった者を見破る唯一の手法は直感と相手の言動と態度です。見破れないくらい手練手管の悪霊相手はより優れた善霊に守ってもらうしかありません。人間の詐欺師相手と全く同じです。

 

 

霊はその人間の霊的な進歩度合いと近しい親和性のある人と引き合います。悪人には悪霊が善人には善霊が、あるいは酒飲みには酒好きの霊(大抵は生前酒好きだった地縛霊か天狗)といったように趣味嗜好が近しい者同士が惹かれ合います。

 

 

これは人間でも気の合う者同士がグループになるのと同じで、現代風に言うなら例えばスクールカースト上位クラスのジョッグやクイーンビーのような学生とゴス、ナード、ギークといった底辺の学生が連まないと同じです。大企業の経営者や大金持ちたちがホームレスと関わることも基本的にはありません。大抵は自分たちと似た性質の者たちが集まります。但し特別な使命がある場合は別で、これは親和性の話です。自然に、あるいは好んでそうなる意味で、霊的な進歩度合いが異なる階級同士の接触が不可能という意味ではありません。

 

 

地上はみな肉体という入れ物に入りますので様々な個性と進歩度合いの者が同列に関わるという点が興味深く修行になるポイントです。しかし人間の精神的な部分がそうであるように霊はその傾向が人間よりも遙かに強く親和性の法則が強烈に働きます。

 

 

つまり私に懸かってくる霊は私と同程度の進歩具合で似たような性質の霊が多いということです。懸かってくる霊には申し訳ないですが、私程度に懸かってくる霊ですからどうせたいしたことない霊だと個人的には思っています。

 

 

 

世の中の霊懸かりも大体その人の発言とか性格とか行動とか日常生活のだらしなさとか、そういう部分を見れば大体その人に背後にいる霊がどの程度なのかはわかります。もっとも影響力の大きい霊がそうであるという意味であって、人間側が堕落して高級の守護霊が人間に影響を与えにくいというケースもあるので実際には複雑で難しい問題となります。