
三保ヶ関部屋訪問記「我等が大先祖児島高徳の<有待>の石碑と高徳神社」
此のblogは、 「児島高徳公と増位山の三保ヶ関部屋」と共に、御覧下さい。
* 画像は、三保ヶ関部屋屋上に有る児島高徳公顕彰忠櫻会庭田尚三会長寄贈の、
「我等が、大先祖児島高徳の<有待>の石碑と右側の社が、 児島高徳公を祀った高徳神社」。
(<有待>の文字の下の志純は、児島高徳の号です)
(<有待>の文字の下の志純は、児島高徳の号です)
児島高徳は、長慶天皇と共に、東北巡幸の際、陸中の国和賀郡妙見寺を訪れ、
彼の地の佐竹・南部両氏の南朝方への力添えを乞うたが、果たせず、
<有待>(うたい・頼みをする処が有るの意味)の文字の懸額を残し、
天授五年(1379)彼の地で死んだ事にして、上州古海に帰りました。
[此の<有待>の書は、岩手藩の学塾に、掛けて有ったが、現在は、行方不明]
彼の地の佐竹・南部両氏の南朝方への力添えを乞うたが、果たせず、
<有待>(うたい・頼みをする処が有るの意味)の文字の懸額を残し、
天授五年(1379)彼の地で死んだ事にして、上州古海に帰りました。
[此の<有待>の書は、岩手藩の学塾に、掛けて有ったが、現在は、行方不明]
「児島高徳公顕彰忠櫻会庭田尚三会長」に付いては、下記リンクを御覧下さい。
* 蝦夷地の佐竹・南部両氏は、何故、味方に成らなかったか?
両氏は、我々、弥生人に、
北に追いやられた縄文人系のアイヌの出自なので、
断ったと思われます。
(「아, 있네/a-inne」の言葉から、아이누/ainuアイヌ民族を呼ぶ様に成った)
奥州平泉の藤原秀衝に、
祖佐々木盛綱の父の伯母が、嫁いでいる縁で、陸中に行く事が出来た。
■ 5月26日、甲状腺静養の為、
渡韓していた愛妻を成田空港へ向いに行く際、三保ヶ関部屋を訪問した。
元大関増位山の三保ヶ関親方は、理事会の為、
元大関増位山の三保ヶ関親方は、理事会の為、
留守で、女将さんに其の後の様子を窺い、
沢山の<三保ヶ関部屋グッズ>を戴いた後、時間が、無く成り、
空港へ出向き、愛妻と共に帰宅後、
親方から電話が、来て、丁度すれ違いの様な状況だったとの事でした。
親方から電話が、来て、丁度すれ違いの様な状況だったとの事でした。
過日、ソウルに行き、元祖韓流スターの安聖基と一緒に唄を歌ったと云う。
지난 서울에 갔어 원조한류스타 안성기와 함께 노래를 노래했다고 말한다.
「元祖韓流スターの安聖基」に付いては、下記リンクを御覧下さい。
지난 서울에 갔어 원조한류스타 안성기와 함께 노래를 노래했다고 말한다.
「元祖韓流スターの安聖基」に付いては、下記リンクを御覧下さい。
相撲協会も、団塊の世代の三保ヶ関親方を含む親方衆が、2~3年後、
大勢定年に成るので、心配です。
兎に角、【我等が、大先祖児島高徳公の歴史を後世に残す事】で、
兎に角、【我等が、大先祖児島高徳公の歴史を後世に残す事】で、
一致しました。
成るべく早く、児島高徳公の墳墓を又、女将さんと二人で、参拝して戴きたい。
「児島高徳公と其のルーツ」に付いては、下記リンクを御覧下さい。
成るべく早く、児島高徳公の墳墓を又、女将さんと二人で、参拝して戴きたい。
「児島高徳公と其のルーツ」に付いては、下記リンクを御覧下さい。
「児島高徳公終焉の地」に付いては、下記リンクを御覧下さい。
尾島産大和芋は、此れも、我々に縁が有り、
[新田義貞公の首塚と其の第二夫人勾当内侍の墓]が、有る<花見塚>、
児島高徳公の娘徳子が、嫁いだ<宮下家当主八郎氏宅>の近くで、
義貞公の鎌倉攻めに、従軍した茂木知貞の後裔で、
友人の茂木実が、生産した大和芋だと言ったら、
非常に、喜んで、貰いました。
◎ 韓国では、韓国相撲を씨름・ssi-reumと言います。
相撲は、한글表記ですと、스모・su-moですが、
発音が、似ていると思いませんか。?
そして、立行司の木村庄之助・
式守伊之助の苗字・姓氏のルーツを解明すると、
木村は김라・kim-ra(金羅)で、全羅道の金氏。
式守は식구머리・sig-ggu-meo-ri(食口頭)で、
家族の頭・世帯主を意味します。
玄関上には、我が一族家紋の三宅輪宝が掲げて有りました。
児島高徳公陰陽直系二十四世裔 三宅英雄(号 昔城、元読売新聞記者)
2024.7.15 更新 (linkは、一部其の儘)。
Copyright (C) 2005-Permanence Hideo Miyake. All Rights Reserved.
