

『児島高徳公顕彰忠桜会』
会長 庭田尚三(号 暁山)の生涯。
* 画像は、庭田暁山「戦艦大和を忘れるな」のケースと表紙、内容の一部。
庭田尚三は、戦艦大和の設計者の一人で、海軍中将だった人で、
私の遠祖児島高徳公の顕彰に尽力され、
この方が居なければ、行政の協力は得られませんでした。
中曽根康弘元総理が海軍主計少佐だった縁から、陳情の努力もされましたが、
当時は、福田赳夫総理の時代でしたので、
福田総理に<児島高徳公600年祭>の名誉会長を御願いした次第です。
中曽根総理には、裏で動ごいて戴きました。
庭田尚三先生には、岡山から何度もおみ足を運んで戴きました。
【暁山(庭田尚三)先生の生涯】
1888年6月29日 現在の和歌山県橋本市高野口町名古曽で生誕。
1901年 仝伊都郡九度山町の高等小学校を卒業。
其の後 奈良県五条中学校から、京都第三高等学校卒業。
其の後 東大造船学科在学中、海軍依託学生に採用される。
1915年 東大卒業後、海軍造船官として、27年勤務。
1942年 「戦艦大和」「戦艦武蔵」を建造し、海軍技術中将で軍籍を離れる。
1943年 岡山県児島の<三井造船>常務取締役玉野造船所技術副長。
其の後 商船増産・特殊潜航艇「蛟竜」量産。
1945年~ 敗戦後、海軍と三井財閥解体以来、
小早川秀詮(ひであき)の後見人で有った、
先祖伊岐遠江守真利(いきとおとみのかみさねとし)の常山城跡の見える、
岡山市妹尾東畦に住み、
以来、私の遠祖児島高徳公が戦後の歴史から抹殺され、
津山市院庄の児島高徳公を祀る<作楽神社>が、
荒廃に任せた侭なのに憤慨、
一念発起して、作楽神社境内に、「噫忠義桜十字詞之塔」を建立以後、
『児島高徳公顕彰忠桜会』を組織。
岡山県内で人に知られていない児島高徳公の史蹟を顕彰。
1、児島高徳公長男の子孫岡山城主宇喜多秀家の顕彰碑を岡山城閣裏に建立。
2、瀬戸内市邑久町北島明王院境内に、
高徳公の父和田範長一族の五輪供養塔建立。
3、児島高徳公真の墳墓を探すべく、其の墳墓と言われる
イ、倉敷市児島林、 ロ、仝児島木見、 ハ、赤穂市坂越妙見山、
ニ、河内長野市観心寺、 ホ、安来市清水寺、
ヘ、豊田市広瀬広済寺 を訪ねたが、真の墳墓に有らず、
1971年~ 三河三宅と太田市宮下家の古文書、
そして、私の家の「正伝記」と「青銅霊碑」を見て、
代々私の先祖が守護して来た、真の墳墓を確認し、
児島高徳公次男高久の後裔の私の父、
仝三保ヶ関国秋氏と尊瀧院縁の宮家史朗氏、
顕賛会長稲村陸合一氏の斡旋で、大卒塔婆を建て、供養を行い、
「児島高徳公史跡保存会」の発足に至り、無事600年祭を行った訳で有る。
1980年 92歳で死去。
庭田尚三を顕彰する碑が岡山県和気郡和気町の藤公園に設置されている。
暁山(庭田尚三)先生は、高齢にも拘らず、一人で、私の家に来る度、
太田のロイヤルホテルに泊まり、父がまるで、秘書の様に接していました。
父は免許が無い為、私が運転手の様に案内したのでした。
黒のベレー帽を被り、杖を突ていても、非常にしっかりしていた事を今でも思い出します。
其の後、連絡が無く成り、『児島高徳公顕彰忠桜会』二代目会長を名乗る人から、
書面が来ましたが、此方も、連絡が無く成りました。
「長慶天皇御陵墓」が、高等小学校時代九度山町に有った関係から、
暁山先生のライフワークが始まったのです。
このページは、暁山(庭田尚三)先生の遺業に感謝し、
暁山(庭田尚三)先生の縁者に敬意を表する為、
公開する物です。そして、児島高徳公顕彰の為、
尽力された方々皆様にも感謝申し上げます。
【暁山(庭田尚三)先生の著書】私の蔵書。
1、「日本歴史皇統系譜並に主要事績一覧表 附児島高徳公年表」
児島高徳公顕彰忠桜会発行。1972年5月8日
2、「児島高徳と<天、勾践>のはなし」
児島高徳公顕彰忠桜会発行。1973年3月4日
3、「長慶天皇と児島高徳太平記」
暁山89歳生誕記念 児島高徳公顕彰忠桜会発行。1977年6月29日
4、「戦艦大和を忘れるな」
旧日本海軍艦艇顕彰出版会発行。1979年10月20日
〒370−0516 群馬県邑楽郡大泉町中央2−10−19 T&F 0276−61−0560
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2021.2.5 更新。
