真の愛とは(天を中心とし)

他を第二の私として創造するときに生じる

(守りたい与えたい)情的衝動のこと

 

真の愛とは利他主義ではなく他我主義である。

他我主義とは他を第二の私として創造すること

参考資料

補助教材『韓民族選民大叙事詩』(137頁14行目~139頁1行目)

真の愛とは❝与えてもさらに与え、忘れることである❞と言われます。では、いつまで与えるべきでしょうか?❝もうこれ以上与えるものがないというところまで与え、更に作って与えるべきだ❞と語られました。そして、❝与えたことを忘れなければならない❞とも言われるのです。このように講義したところ、米国のメンバーが手を挙げ、❝すべて与えても、さらに与え、私が否定されれば、私はどこに行きますか?❞と質問しました。真の父母様は、その答えを語られています。❝真の愛は、与えてもさらに与え、忘れることである。その目的は、カイン圏が残っているからである。カイン圏を救うために言ったことである。怨讐、他人のために与えても、さらに与え、忘れる目的は、相手を第二の「私」として創造することである。私のような立場に立てて、その次の段階は、私がしたことを代わりにできるようにすることが、真の愛である。授受作用を通して平等な状態で共に暮らす主義である。❞と語られました。そうしなければ、世界平和は永遠に来ません。

なぜ、改めて「独り娘の宣布」しなければならないのか?

 

旧約:神を畏れる

→解放してくれる存在(解放神)          

十戒「神の名をみだりに口にしてはならない」

イエス様≒神

神を親しく父と呼ぶ

「父なる神」宣布

 Holy Mother Han の祈祷宣布

→隠された「母なる神」の宣布

  • 天の父の実体≒アボジ
  • 天の母の実体≒オモニ

∴独り娘の宣布⇒天の父母様の完成を意味する

 

つまり

イエス様が「父なる神」を主張したため、

その対比として

お母様は「母なる神」を主張する必要があった。

 

それと同じく

イエス様が「独り(息)子」といったように

お母様も「独り娘」という必要がある。

 

要するに

改めて「独り娘を宣布」したのは

「神様が天の父母様として完成」したため。

 

 

なぜ迫害で悲惨な人生を送った人ほど予定説を唱えるのか
イエス様は言う「汝の敵を愛せよ」
つまり父母なる神様から見たら迫害する相手を悲しく思っても憎みはしない
でも本当に心から怨まずに許せるのか?かなりの疑問

そこで私は考える
「そうだ私が生まれる前から私は迫害されいじめられることが決まっていたんだ。自明の理。自然の摂理と同じように春から夏、秋、冬、そしてまた春が来るように……。だとしたら恨むなんてナンセンスだ。お門違いもいいところ

そう考えたら怨みというに荷も軽くなる予定説というのは一つの方便という真理なのかもしれない。
                                                                                                                       

「侍る」って母が我が子に抱く思いでもあるのかも知れない。子供が親にがあるように親にも子供に対して「こんな自分でも手放しに信じてくれている」という恩がある。だから神様がわたしにしてくれているように神様にしてあげればいい。恩讐の人がわたしに数多くの危害を加えて来たら、それを見ている親なる中心者の神様はただただ悲しく思うだろう。我が子が親なる神様に数多くの危害を加えて来たら、ただただ悲しく無抵抗になるだろう。そして「その子をそのように育てた私のせいだ」と自分を責めるだろう。だとしたら自分も神様と一緒にただただ悲しく無抵抗になればいいじゃないか。それで神様と一緒に滅べたらいいじゃないか。「信じて滅びよ」だ。神様は全知ではなく愛することしか知らないのだから

 


よく世間では結婚するのに、愛とお金のどちらが大事とよく言われます。私が思うにはの質問自体に間違いがあると思っています。

お金と愛はは両輪お金がないと愛せないし、愛がないと意味がない愛は目的、お金は手段

お金があるのは愛を分けるために必要なのです。(『こころの四季②』58ページ)

アボジのみ言に、神様はお金に関心がありませんというものがありますが、これは愛がすべてということを強調するための方便だと思っています。やはり万物を通して愛を表現することも大事です。だからこそ供え物や献金にも意味があります。