7時、零下四度。

 

 

 今日は午後1時半から妻籠冬季大学講座。

 

午後1時10分頃に行ったら、受付の名前を書く欄に私が十六番目?だったか‥、記憶が定かでないが人が少ない。

 

折角「コバさ」を偲ぶ会なのに‥と心配していたら、その後多くの人が来てくれて好かった。

 

定刻に藤原理事長の挨拶と司会で始められた。

 

向井南木曽町長、コバサの娘さん、元大学教授上野先生、太田安曇野市長、長野県立博物館笹本先生、佐藤松本大学教授、吉沢信濃建築史研究室代表など、生前交流の有った方々の挨拶や思い出話がなされた。

 

娘さんは当然として、先生方夫々思い出を語りながら込み上げるものを押さえきれない様子で、木曽地方事務所長時代に交流が有った現安曇野市長の太田寛さんも、何度も言葉に詰まる様子に、私ももらい泣きしそうになる。

 

太田寛市長さんには詩吟の大会に来てもらって面識があるものの、市長さんは私を覚えていないと思うが、式典の進行をする時、来賓のお名前を寛(ゆたか)と間違えないように紹介しなくてはならないので、私はよく覚えている。

 

休憩中の様子。

 

休憩後の3時13分からは、國學院大學観光まちづくり学部、石山千代准教授により、コバサとの思い出をパワーポイントを使いながら話された。

 

多くのエピソードを聞きながら、コバサの魅力と偉大さ、偉さを再認識した。

 

途中で理事長が「コバさとの思い出を語りたい人はいませんか?」と投げかけがあったが、誰も名乗り出ない。

 

会場に来られた皆さん、夫々思い出はあると思うが、皆の前で話す程の事ではないと遠慮しているのだろう。

 

コバサが亡くなった時、このブログで、コバサが私の叔母さんを嫁にと申し込んできたことがあり、ひょっとすると私の義理の叔父さんになっていたかもしれないと書いたが、青春時代のコバサを語る人が居ても好かったかもしれない。

 

何か分からない時、聞けばたちどころに答えてくれた。

本当に、あの頭の中に詰まった知識や見識が無くなってしまったのは残念。

 

3時15分に閉会し、家に3時半頃帰ってきた。

 

 

 常連のTや、他からも頂いた長芋が有るので、妻に頼んで出汁を作ってもらい、夕食に芋汁を作った。

 

いも汁を作るのは私の仕事だが、いつも五平餅を作る時の短い擂り粉木ではなく、50cmの長い擂り粉木を使う。

 

短い擂り粉木だとやり辛いのと、多くなってくると手にイモが付いてベトベトになることが有る。

 

イモ汁好きの私は満足。

 

 

 因みに、この長い擂り粉木は実用的なものではなく、祖父ちゃんの宴会芸用の擂り粉木だったのを、作り直してある。

 

宴会で酒が入ってくると、浴衣の紐などを太ももの上あたりに輪にして縛り、この擂り粉木を輪の中に挿し込んで、二~三回前向きに廻して捩じりを入れる。

そして膝を広げたり閉じたりすると、擂り粉木の先が勢いよく上下する。

撫でたりさすったりして「この見事な・・・・」とか唄いながら場を盛り上げていて、最後に見たのは保育園児くらいの私には意味は分からないし、唄も覚えていないものの、大人の男女が大笑いしていた記憶がある。

 

昔は飲めば手拍子で色んな歌を歌うので、歌詞を覚えていた。

音程やリズムを崩しても、音痴でも楽しめた。

 

今は宴会があっても手拍子で唄うことが無くなり、こうした宴会芸や替え歌の艶歌が聴かれなくなって、寂しいし残念。