∵ はるか昔の話になった

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 フェイスブックに、島崎藤村の「小諸なる古城のほとり」について投稿があり、藤村について私の知っていることをコメントした。

 

 

 藤村は良くも悪くも芸術家ですから、日本ペンクラブ初代会長など、陽の当たる面もあれば、姪に子供を産ませるなど陰の部分もあります。

作者人物のそうした部分も含めて、受け入れて昇華していけば、表現が深まると思います。

 

関東大震災の時、藤村の住む大磯も被害を受けたと聞いた馬籠の人達が、「郷土の大先生が困っているだろう」と味噌・醤油・米・野菜などを持ち、震災で交通が分断されて大変な中を苦労してたどり着き、玄関に品々を並べて、「先生!持ってきました!」と言ったところ、書斎から出てきた藤村が「あっ、そっ!」と一言だけ言って、スタスタと書斎に戻っていったので、持っていった人達が悲しい思いをしたという逸話が有ります。

四十五年ほど前、馬籠にも詩吟教室があり、私が代範で行っていましたから、地元の会員から聞いた話です。この逸話を知っている人は、もう地元にも居ないかもしれません。

 

 藤村のために書き加えさせていただくと、多分構想を練っていたり執筆中で、そのことだけしか頭になかったのでしょう。その辺りが俗人と違い、芸術家たる所以なのではないでしょうか。

 

 馬籠教室の人達を思い出して、古根先生の昔のプログラムをスキャンしてみた。

昭和四十九年七月二十日の、第二回大会から名前が出ていて、

第一回と第二回は、丸山先生の手書きだった。

 

今の、道の駅「しずも」の国道を挟んだ反対側に、当時山口村で建てた大きなドライブインがあって、二階の大広間でやっている。

 

私は大合吟の先導をしていた。

 

5番から12番が馬籠教室の人達。

13番の人が存命か知らないが、他の人は、全て故人。

 

私は61番、律詩の黄鶴楼をやっていた。

多分、「中伝位者だけ律詩をやりなさい」と、先生から言われたのかも。

連吟も54・55番と勘定しているので、先生まで含めて六十四名。

 

教室名は南木曽町役場教室だが、先生も含め十名の内役場の職員は四名で、私も含め他の五名は職員では無い。

 

昭和49年から丁度四十五年。

年月の過ぎるのは早い。