一乗谷城 福井県福井市 100名城 | 細川竜太郎(旧くろかん)のブログ

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令和4年7月17日久々に家族旅行に行きました。京都から湖西道路を使って3時間くらいでした。ずっと行きたいと思っていたのですが、なかなか実行できずやっと行けました。朝倉氏が開いた街並みです。福井市ですがだいぶ山あいに入った内陸部にあります。山の上に城跡はあったのですが、片道1時間かかることと熊が出るとのことで断念して麓の街並みだけ散策しました。

 

 

 

朝倉館唐門

 

朝倉氏は但馬国朝倉庄(現兵庫県養父市)の豪族で、その地名を名前の由来にしています。南北朝時代に越前守護斯波氏に従って越前に入国し、地頭として一乗谷近隣を支配の拠点にしました。

戦国大名朝倉氏の初代当主の孝景は、1467年の応仁の乱での活躍をきっかけに、1471年に幕府から越前守護に関する要望を認められ、以後氏景、貞景、孝景、義景と5代にわたって越前を統治しました。この間、一乗谷には京の貴族や僧侶など文化人が訪れ、北陸の小京都とま呼ばれるほど隆盛を誇りました。しかし、天下統一を目指す織田信長と対立し、1573年に朝倉氏は滅び、城下町も焼き払われました。

 

朝倉館内部

後に室町幕府15代将軍となる足利義昭もここに招かれ厚遇されました。義昭は上洛時の同道を朝倉義景に期待しましたが、義景はその要望に答えず、代わって織田信長とともに義昭は上洛することになりました。

 

朝倉館内部

 

湯殿跡庭園

 

朝倉義景

 

復元町並

 

朝倉氏黄金の甲冑

 

明智光秀居住推定地

光秀と妻煕子との間に娘玉子が産まれた地とされる。明智光秀は美濃で仕えていた土岐頼純が斎藤道三に追われ、亡命した時、同盟者であった越前の朝倉義景のもとに身を寄せたと言われています。その後もしばしば、土岐頼純は越前朝倉氏と近江浅井氏に支援されて斎藤道三と争いますが、道三により暗殺されてしまいます。主君を殺された光秀は、仇である道三の息子、義龍に加担して、ついに道三を倒すのです。

 

 

明智神社

 

一乗谷城御城印

 

現地で戦国宝探しというイベントがあっていて、家族と一緒に楽しむことができます。最初は子供だけでできるものとたかをくくっていましたが、内容を見ると大人が手を貸してあげないと難しいことが分かり段々とこちらが子供より一所懸命になってしまい、同じとこを何度も何度もぐるぐる😆気候も夏真っ盛りで暑さと歩き疲れでもうくたくたでした。2つあった問題の内1つは解けましたが、もう1つは分かりませんでした。悔しかったなー

この後、夜まで考えて何とかもう一問も解くことができました👍

 

 

かわだ温泉ラポーゼかわださんで美味しいご飯をいただきました。疲れた体に日本酒が沁みました。

 

 

 

翌日は若狭の方まで戻って子供たちと釣りを楽しみました。

 

新田義貞を祀った藤嶋神社とか丸岡城も行きたかったけど時間がなく断念しました。また福井県行こうと思います。

 

福井名物羽二重餅と

 

若狭町で地ビールと梅酒ハイボール買って帰りました。美味しかった。