2024.5.7

紀元前161年に烏孫によって追い出されるまでは、イシククル湖周辺と玉ギョク(ヒスイ)の産地・タリム盆地を占めていたのは月氏である。この地を占領した烏孫は5世紀から6世紀にその姿を消しており、拠点となっていたのは赤谷城。

一方、追い出された月氏は大月氏と小月氏に分かれる。


大月氏は西へ逃れ、アラル海アム川の南にあるトハリスタン(大夏)を征服してその地に落ち着いた。
武帝の時代・紀元前139年に張騫チョウケンが同盟の使者としてやってきた時の王はかつて匈奴に殺された先代王の夫人で、女王であった。
同時期に武帝は烏孫と同盟するため皇族の娘・江都公主細君を嫁がせた。赤谷城で生活したとされる彼女は悲愁歌を残している。黄色い鵠になって故郷に還りたい。彼女は高齢の烏孫王とその息子とも結婚し、子を儲けた。
チョウケンの同盟の旅路がシルクロードの元となっている。

それから100余年、つまり紀元前39年以降。大月氏はクシャン王の時代に安息パルティアに侵入。

その子の閻膏珍エンコウチンが代わって王となる。閻膏珍は天竺インドを滅ぼし、将一人を置いてこれを監領したという。この政権がクシャーナ朝。中国ではこれも大月氏と呼んでいる。

クシャーナ朝の彫像には、月のシンボルが多く見出される。

前述の烏孫が姿を消した後、7世紀から10世紀の唐の史書に弓月城が現れる。

この城がイシククル湖の中の島に築かれた王宮なのではないかと考えています。

7世紀。629年に長安を出発した玄奘三蔵がイシククル湖(熱海ネッカイ)を訪れ、湖の中に竜がいたことを記している。湖上の島や王宮は見ていない。

13世紀から14世紀にはアルマリクとなっている。

14世紀のチムールの時代には湖上に島があって、王宮が築かれていたという。

18世紀には島も王宮も存在しない。

そして1985年の調査によると、湖底に眠る遺跡は7世紀から15世紀のものとされ、赤谷城とされている。


イシククル湖の伝説を簡単に述べる。

この地には湧き続ける不思議な井戸があった。水を汲んだあとは鍵をかけるか石を乗せる必要があった。ある日一人の娘が水を汲んでいるところへ恋人が現れ、娘は鍵をかけるのを忘れた。町は一夜にして水の底に沈んだ。


私の説はこうである。5〜6世紀に町を湖に沈めた娘は、白鳥になって故郷に還りたいと歌った劉細君の子孫。王族の娘。娘の前に現れた男はおそらく同盟か何かで訪れていた大月氏の王子。烏孫と共に赤谷城は湖に沈み、当時山だったものが湖上の島となって残った。人々は歌いながら湖に沈んだ。男は娘が命に代えて守ったため、生き残った。この地を追い出されていた大月氏がその島に新たに弓月城を建設した。この島と城は竜の巣の中にあり、普段は見えない。629年に長安を出発した玄奘三蔵が島や王宮を見ていないのはそのため。なお湖を覆う天山山脈が蓬莱山である。湖に沈む二人はある約束を交わした。「鳥になって飛び、もう一つの月で会おう。」

この記憶がレムリアであり、もう一つの月として選ばれたのが、月の国・日本である。

約束を果たす人物として選ばれたのは631年に渡来した扶余豊璋フヨホウショウ。中臣鎌足と名乗り大化の改新を引き起こし、藤原鎌足として藤原家を名乗る。彼が弓月の君を名乗ってもおかしくないし、大月氏がインドに絡むので藤原氏が仏閣を建立していくのもおかしくない。

彼の名前は712年に編纂された古事記において天之日矛となるが、ヤマトタケルでもある。タケルが白鳥になって飛んで行った先は浦島太郎に描かれるように、もう一つの蓬莱山・紀州熊野である。

のちに劉備の妻を芙蓉姫と呼ぶのが日本だけなのも興味深い。


続きます

次回は大月氏の女王と卑弥呼



以下は資料です

烏孫
紀元前161年から5世紀にかけてイシククル湖周辺に存在した遊牧国家。青目・赤顔。
征服され匈奴で育てられた昆莫コンバクは、紀元前161年に烏孫の民を引き連れ、西へ移動しイシククル湖周辺にいた大月氏を追い出して烏孫国を建国した。
武帝の時代に張騫チョウケンが同盟の使者としてやってきた時、一度はためらう。(これがシルクロードとなる)が、やがて同盟を希望する。漢は皇族の娘である江都公主劉細君を嫁がせた。彼女は悲愁歌を残している。黄色い鵠になって故郷に還りたい。
現在、赤谷城のあった所はイシククル湖に水没しており、湖底でその遺跡らしきものが発見されている。
5世紀から6世紀にかけて烏孫族は姿を消した。


大月氏
烏孫に追われた大月氏は西へ逃れ、最終的に中央アジアのソグディアナ(粟特)に落ち着いた。そこで大月氏はアム川の南にあるトハリスタン(大夏)を征服してその地に落ち着いた。武帝の時代に張騫チョウケンが同盟の使者としてやってきた時の王はかつて匈奴に殺された先代王の夫人で、女王であった。

それから100余年、護澡城の貴霜クシャンの丘就卻キュウシュウキャクが王となる。クシャンの王は安息パルティアに侵入。80余歳で死ぬと、その子の閻膏珍エンコウチンが代わって王となる。閻膏珍は天竺インドを滅ぼし、将一人を置いてこれを監領したという。この政権がクシャーナ朝。中国では大月氏と呼んだ。

『魏書』列伝第九十に「大月氏国、北は蠕蠕(柔然)と接し、たびたび侵入を受けたので、遂に西の薄羅城バルフへ遷都した。その王・寄多羅キダーラは勇武で、遂に兵を起こして大山(ヒンドゥークシュ山脈)を越え、南の北天竺インドを侵し、乾陀羅ガンダーラ以北の五国をことごとく役属した。」とあり、この頃の大月氏はクシャーナ朝の後継王朝であるキダーラ朝を指し、中国ではキダーラ朝までを大月氏と呼んでいた。