2024.5.7
紀元前161年に烏孫によって追い出されるまでは、イシククル湖周辺と玉ギョク(ヒスイ)の産地・タリム盆地を占めていたのは月氏である。この地を占領した烏孫は5世紀から6世紀にその姿を消しており、拠点となっていたのは赤谷城。
一方、追い出された月氏は大月氏と小月氏に分かれる。
その子の閻膏珍エンコウチンが代わって王となる。閻膏珍は天竺インドを滅ぼし、将一人を置いてこれを監領したという。この政権がクシャーナ朝。中国ではこれも大月氏と呼んでいる。
クシャーナ朝の彫像には、月のシンボルが多く見出される。
前述の烏孫が姿を消した後、7世紀から10世紀の唐の史書に弓月城が現れる。
この城がイシククル湖の中の島に築かれた王宮なのではないかと考えています。
7世紀。629年に長安を出発した玄奘三蔵がイシククル湖(熱海ネッカイ)を訪れ、湖の中に竜がいたことを記している。湖上の島や王宮は見ていない。
13世紀から14世紀にはアルマリクとなっている。
14世紀のチムールの時代には湖上に島があって、王宮が築かれていたという。
18世紀には島も王宮も存在しない。
そして1985年の調査によると、湖底に眠る遺跡は7世紀から15世紀のものとされ、赤谷城とされている。
イシククル湖の伝説を簡単に述べる。
この地には湧き続ける不思議な井戸があった。水を汲んだあとは鍵をかけるか石を乗せる必要があった。ある日一人の娘が水を汲んでいるところへ恋人が現れ、娘は鍵をかけるのを忘れた。町は一夜にして水の底に沈んだ。
私の説はこうである。5〜6世紀に町を湖に沈めた娘は、白鳥になって故郷に還りたいと歌った劉細君の子孫。王族の娘。娘の前に現れた男はおそらく同盟か何かで訪れていた大月氏の王子。烏孫と共に赤谷城は湖に沈み、当時山だったものが湖上の島となって残った。人々は歌いながら湖に沈んだ。男は娘が命に代えて守ったため、生き残った。この地を追い出されていた大月氏がその島に新たに弓月城を建設した。この島と城は竜の巣の中にあり、普段は見えない。629年に長安を出発した玄奘三蔵が島や王宮を見ていないのはそのため。なお湖を覆う天山山脈が蓬莱山である。湖に沈む二人はある約束を交わした。「鳥になって飛び、もう一つの月で会おう。」
この記憶がレムリアであり、もう一つの月として選ばれたのが、月の国・日本である。
約束を果たす人物として選ばれたのは631年に渡来した扶余豊璋フヨホウショウ。中臣鎌足と名乗り大化の改新を引き起こし、藤原鎌足として藤原家を名乗る。彼が弓月の君を名乗ってもおかしくないし、大月氏がインドに絡むので藤原氏が仏閣を建立していくのもおかしくない。
彼の名前は712年に編纂された古事記において天之日矛となるが、ヤマトタケルでもある。タケルが白鳥になって飛んで行った先は浦島太郎に描かれるように、もう一つの蓬莱山・紀州熊野である。
のちに劉備の妻を芙蓉姫と呼ぶのが日本だけなのも興味深い。
続きます
次回は大月氏の女王と卑弥呼