2024.4.19
先ずは玉取姫の物語全文
昔、当時の中国の名称である唐の第3代皇帝、高宗(こうそう)に嫁いだ藤原鎌足の娘である白光は、亡き父の供養物として数々の宝物を、兄である藤原不比等に届けようとしました。
ところが、宝物を積んだ船が志度の浦にさしかかったとたん嵐が起こり、唐に二つとない宝物「面向不背(めんこうふはい)の玉」が龍神に奪われてしまいます。
藤原不比等は玉を取り戻そうと、公家の高官である身分を隠し、淡海(たんかい)と言う名で志度の浦へやってきました。
そこで漁師の娘であった海女と恋に落ち、房前(ふささき)という男の子を授かり、親子三人で幸せに暮らしていました。
ある日、不比等が自分の素姓と志度の浦へやって来た目的を海女に明かすと、愛する人のために玉を取り戻そうと、海女は死を覚悟で龍神のいる竜宮へ潜っていったのです。
海上で待っていた不比等は、海女の合図で命綱をたぐってみると、目の前に現れたのは、今にも事切れそうな海女の姿でした。海女は間もなく不比等に抱かれたまま死んでしまいましたが、玉は海女の命に代えて取り返すことができたのです。
不比等は亡くなった海女を志度寺に葬ると、残された房前を都に連れて帰っていきました。
【竹生島】
この玉が市杵島姫を祀る竹生島にあるという
【里見八犬伝】
伏姫は犬の子を産む恥に耐えられず入水を図ったが
父と夫の前で割腹し、胎内に犬の子がないことを証した。その傷口から流れ出た白気は姫の数珠を空中に運び、仁義八行の文字が記された八つの大玉を飛散させる。
【イシククル湖の伝説と市杵島姫】
都市を湖に沈めてしまった二人の男女。一人はフヨホウショウ・藤原鎌足。古事記では天之日矛。女性の方は湧き続ける井戸の水に鍵をかけるのを忘れ、男を助けて亡くなった。古事記では櫛になった櫛名田比賣。櫛だけが流れ着いた弟橘姫。そして豊玉姫。浦島太郎では乙姫。すべて八臂辨財天の八つのうちの一臂。つまり市杵島姫
彼女らは空海が無熱池(イシククル湖)から勧請した善女龍王でもある。
【浅井家に嫁いだお市と娘の茶々】
お市の娘である茶々、江。さらにその娘たちは
豊臣家・徳川家・天皇家にそれぞれ嫁ぐ。
浅井長政の母・小野殿は井口経元の娘であり、井の口殿と呼ばれる。
井口氏は、富永庄総政所を主宰する荘官であり、高時川右岸を灌漑する伊香郡用水を管理していた「井頼り」でもあった。
浅井長政の父と井の口殿の結婚は、高時川の用水をめぐり各岸を代表する浅井氏(左岸の代表者)と井口氏(右岸の代表者)の融和を目的とした婚姻でもある。
【寧々と茶々】
竹生島を信仰し守ったのが寧々。それと茶々や初、江の浅井三姉妹。彼女らとその子孫たちがイシククル湖の女性の魂や、市杵島姫の魂を色濃く受け継いで天皇家や徳川家にまで入って行ってるのだと思われます。
本物の面向不背の玉とは、ラピスラズリで出来た勾玉。
キルギスから藤原鎌足が持ってきたもの。
二つのうちの一つ。
ここから下は
ひとりごとです
これは
キルギスのイシククル湖で起こった話を香川県に当てはめたものと思われる。
もしもこの地ならば、埋め立てることにはならない。
本物の玉は三種の神器の一つだからだ。
竹生島に祀られたものはおそらく何者かによる後世の作品。
そもそもサイズが違う。
玉取姫の物語自体は古事記を編纂した712年頃には出来ただろう。編纂したのもおそらく藤原不比等。
ただ、
玉取姫の乳房を切る云々は、後世に里見八犬伝の話を足したと推測。
竜に手足が食われた云々も、後世になって古事記からの引用かと思われる。
古事記で亀を表している部分は、ヤマトタケルに手足を折られた兄として表現されている。