日差しが少しだけあたたかく感じられるようになった3月の日曜日。
私は喫茶店のドアを開けた。
カランコロンと鈴が心地よく鳴り、いらっしゃいませの声。
店のマスターはやさしい笑顔の綺麗な女性。カエデさんだ。
「あら、チカちゃん。いらっしゃい。どうぞ。何にする?」
「じゃあ、オムライス。」
そう言って私はいつものカウンターの席に座った。
カエデさんは私の兄の婚約者。
‥いや、正確には婚約者だった人だ。
私たちは出会った直後から仲良しになり、よく二人きりで遊びに行っては兄に嫉妬される‥そんな関係だった。
─お前ら、ほんと仲いいよな。─
それが兄の口癖だった。
6年前、その兄がバイクの事故で突然他界した。
それまで眩しいほど放たれていた家族の光が静かに消えた。
そして私たち家族以上にカエデさんは自分を見失い生きる気力を失い今にも消えてしまいそうなくらい痩せて痛々しかった。
人がこの世から永遠に居なくなるということがどれほど心に深く大きな傷を残すのか。そういったことを思い知らされ、私たちはつらく悲しいだけの現実を突きつけられた。
あれから6年。どうしていいのかわからないまま時が過ぎ流れる時間に癒やされながら何とかみんなで支えあって乗り越えてきたのだ。
「カエデさんのオムライス、あいかわらずオイシイね。今度作り方教えて。」
ふふ。いいわよ。
やさしい笑みでカエデさんが答える。
さっきまで居た二人連れの客が帰り、店内には私とカエデさんだけになった。
少し沈黙が続いたあと、カエデさんが意を決したように話しだす。
「あのね、チカちゃん。突然なんだけど‥私ね、結婚しようと思うの。」
え‥?
何言ってるの?
カエデさんの言葉の意味がすぐには理解できなかった。
─相手は喫茶店の常連さんで、とても真面目な人、話していると素直になれるしきっとチカちゃんとも気が合うと思う‥
カエデさんが何かいろいろ話してるんだけどなんだか声が遠くてよく聞こえない。
ああ、うん。
でも‥
「‥チカちゃん?」
理由もわからず涙が溢れた。
気づいた時には店を飛び出していた。
泣きながらとぼとぼと家に帰ると母が玄関に花を飾っている。
「チカおかえり。‥何かあった?」
「‥カエデさん、結婚するんだって。」
あらそう、それはよかったじゃないの。そろそろカエデちゃんも幸せにならなきゃね。
そう言って母は穏やかに笑った。
わかってる。
私だってカエデさんに幸せになってほしい。
でも何なのだろう、このもやもやは。
お兄ちゃんはカエデさんに忘れられるのかな。
私たちの関係はどうなるのかな。
不安と寂しさで胸が苦しかった。
その日の夜、カエデさんからメールがきた。
《今日はびっくりさせてごめんね。きっとショックだったよね。決してマサトさんのことを忘れたわけじゃないの。いろいろ考えて、私がちゃんと幸せになることがマサトさんの供養にもなるのかな‥って。今はやっとそう思える。チカちゃんにもわかってもらえると嬉しいです。》
─わかってるよ。たぶんもうずっと前からわかってた。
お兄ちゃんもそれを望んでると思う。
翌日、カエデさんに─こちらこそごめんなさい。嬉しいことなのに突然でびっくりしちゃって‥今度彼に会わせてね。─といった内容の返信をした。
それから数日後、私はカエデさんのお店でその彼─タジマさんとお会いした。
がっしりした誠実そうな人だ。
「カエデさんのオムライスが食べ放題なんて羨ましすぎます。」
私がそう言うとタジマさんは照れくさそうに笑った。心なしかその口元がどことなく兄に似ている気がした。
よく晴れた日曜日。
カエデさんの《海に行かない?》というお誘いメールで私たちは出かけた。
喫茶店のドアには〔本日休業〕のプレート。
昔よく兄を含めた三人でこんなふうに海へ出かけた。カエデさんはいつもお弁当を作ってきてくれた。
誰もいない砂浜。
波音がやさしくて懐かしかった。
遠い日。足をくじいてしまった私をおんぶして歩く兄。背中の記憶。
「結婚しても会いに行っていい?」
おそるおそる聞く私に、もちろんよ。また一緒に遊びに行こうねとカエデさんは言った。
ほんのりと春の匂いをふくんだ潮風がカエデさんのスカートをそっと揺らした。
もうここに居るはずのないあの人に会える気がした春待ちの風
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