既に勉強に来ている先生方は既におわかりの事ですが改めて、ということになります。
個人崇拝。
これは講習においてだけではなく、私の人生においても、ほとんど意味を成さない概念です。
これまで多くのセミナーに参加してきて、中にはやはり個人崇拝を良しとするものは少なからずありました。
根っこの話を言えば、何のためにセミナーに行っているのか?という問いを参加する側、提供する側は常に自覚しておくというのは大事なところです。
私個人の意見ですが、個人崇拝にはほとんど何の意味も持ちません。本来のセミナー参加の意図が曇ることはあっても、また参加した方がそこの部分にエネルギーを費やす事に割かれてしまうことはあっても、生産的な意味は持たないと思っています。
確かに参加した方達が勝手に崇拝すること自体、止めようがなく、またそれはその人達の自由なのかもしれません。
個人崇拝には大きく分けて2通りあると認識しています。
一つは、代表自身がそうなるように仕組みをつくっている場合。
一つは、NO2の取り巻きがそのような仕組みをつくっている場合。
どちらにしても同じことなのですが、どちらにしても出てくるのは、それが主催者の「望み」だということです。
自分が意図しておこなう場合はもちろん、No2の取り巻きがそれをしたとしても、それを黙認している以上、主催者がそれを是としていることになります。
そうならないように注意を配ることが大事だと私は考えています。というよりも私は無意識的に講習の存在意義が脅かされることがないように、そこが曇ることがないようにします。
私自身、スクールをすることにおいて、一つだけ向いている理由があれば、礼賛されたり、お世辞を言われ過ぎると「引く」という性格があることかもしれません。
基本的には常に自分自身の世界で生きており、それは他者から評価されようがされまいが変わることもなく、ですので褒められたからと言って、何がどう変わることがありません。
また、講習においては、私の正当性を認識してもらう場ではなく、参加した方が変わり、活かせるものを持ち帰っていただく場としていますので、それ以外に喜びの基準はないのです。
ここに参加しながら他のセミナーに行ってもいいですし(ただ頭の切り替えだけはやっていただきます)、自分より前から勉強している先生に必要以上に取り入る必要もありません。
誰かを崇拝したからといって技術が上がるわけでもなく、
誰かを崇拝したからといって人望がつくわけでもなく、
誰かを崇拝したからといって稼げるようになるわけでもなく、
それらを実現したければ、技術をあげる練習をし、人の心に想いをはせ、稼げるように工夫する、それらは自分ですること。
それが本義であり、そこに集中できることが大切であり、
だから、呼吸・整体というメソッドの修得に集中できる場をつくるために、個人崇拝はいらないと思っている次第です。