教育勅語の道徳は、日本人の本来の道徳とは掛け離れた異質なものである。多神教世界に住む日本人にとつての道徳觀とは、美醜と曲直しか無いのではないか。


では、教育勅語とはどういふものかといふと支那思想と西洋思想を混ぜ合はせた能く分らないシロモノだ。書かれてゐる内容は支那の聖諭に似てゐない事もないが、根柢にあるのは基督教の形式なのである。


支那の聖諭は皇帝が作つて臣民に與へたものではない。支那社會で合意を得てゐる徳目を祖述しただけのシロモノである。


これに對して教育勅語は、イエスの山上の垂訓に似て權威あるもののやうに道徳を語つてゐる。これは伊藤博文が明治憲法を機能させる爲に西洋の神の機能を天皇で代替する事にした事と無関係ではない。


教育勅語の徳目が儒教道徳に近いのは、國民に大きな反感を抱かれない爲だ。儒教道徳なら、國民は江戸時代から寺子屋教育で慣れ親しむでゐる。


ただ、孔子も朱子も道徳を權威あるものの如く語つた事はない。むしろラワイ(學者)として道徳を祖述したにすぎない。述べて作らず、である。


明治の政治家たちは、明治憲法を機能させるためには天皇が神(イエス)の如く振る舞ふ必要がある、と考へたのだらう。當時としては、合理的な選擇だつたのかも知れない。


但し、はつきりさせておきたいのは、教育勅語は本来の日本の道徳とは異質なものだ、といふ事である。神代の頃の日本人は、綺麗に眞直ぐ生きればそれで良かつた筈だ。


汚きもの、曲がつたもの、荒ぶるものが、日本人が惡と見做したものである。


國民新聞・平成23年10月25日の記事(その6)をWEBで公開しました。