日本の近代文學といふか小説は、ほとんど大人の鑑賞にたへないものばかりだ。江戸時代の戲作と異なり人間を描くのだと文士の鼻息だけは荒いのだが、所詮ろくな社會經驗もない人たちのオナニイ作品である。


それでも僕は中學時代などは太宰治の『人間失格』なんかを讀むで大人の世界に觸れたやうな氣がしてゐた。高校時代に漱石の『こころ』を讀むだとき、日本文學全體の御子ちやま體質に氣づいた。


サン・テグジユペリの『夜間飛行』のやうな大人の小説を、日本の小説家に期待してはいけないのかもしれない。例へば漱石の小説のほとんどは、退屈なことに社會性が欠如した父ちやん小僧が主人公だ。


演劇や映畫も、戰前はそれなりに面白いものもあつたが、戰後はほとんどが退屈な作品ばかりだ。最近僕が映画館に足を運んだ映畫は、アニメ映畫をのぞけば『Nana』のやうな漫畫を原作にしたものばかりである。


漫畫は大人の世界といふ訣ではないが、荒唐無稽なデタラメさが返つてリアルな世界を垣間見せる事がある。はつきり言つて、日本が世界で競爭力を持つてゐる大衆娯楽は漫畫と動畫、特撮映畫だけだ。


これは日本の漫畫ではないが、『ディルバートの法則』ではオフィスにツノボスだけでなく、皮肉屋のドクバートやよく訣の分らんモンスタアたちが闊歩してゐる。


作者によると世界中から「これはうちの會社の事務所そのものだ」といふ手紙やメールが殺到したといふ。どういふ事なのだらうか。


實際にモンスタアが闊歩するオフィスなどある訣がないのに、この漫畫はその皮肉な内容がビジネスマンにとつてリアルであるが故に大人の鑑賞にたへるのである。


既に數十年前から、日本は映畫やテレビドラマ、演劇などで漫畫を原作としたものを數多く作成してゐる。映畫やテレビドラマ、舞臺演劇が漫画化や動畫化される事はあつたとしても極めて稀だ。


實は日本の大衆娯楽は漫畫と動畫が牽引してゐるのである。そんな情けない、といつたところで、日本人は大人の小説や演劇を書けないし、大衆も子供だからそんなものは望まない。


マツカアサアは日本人十ニ歳説をとなへた。慧眼である。さういふ風土で『夜間飛行』が書かれたりドラマ化して受ける筈がない。


だから漫畫を原作としたドラマや映畫を作るのは、戦略としては正しいのである。世界に通用する日本の文化は、そこにしかないのだから。


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