國史の本の出版を企劃してゐる。詳しくは、「豫告『二千七百年史』」といふ以前に書いた記事を御覽ください。


まあ、それは良いのだが、有史以來の我が國の歴史を調べてゐると、色々と不思議な事に氣づく。例へば、我が國の(文字として殘る)歴史には奴隸階級も奴隸も存在しない。


日本の古代史に存在するのは、おほみたから(大御寶、人民の謂)であつて奴隸ではない。日本語で言ふ奴(やつこ)とは、家つ子、すなはち家の子郎黨の事である。


支那の『三國志』には、邪馬臺國の卑弥呼女王が生口(奴隸の事らしい)を獻じたといふ記録がある。だが、邪馬臺國と日本や大和朝廷の關係はまだ不明だし、生口が邪馬臺國にゐるときも奴隸だつたのかも疑問である。


嚴密にいふと、日本には貴族階級も存在しなかつた。貴族の除目(じもく、つまり貴族の職種)は三百くらゐしかなく、この程度の貴族が存在しても階級とは言へない。


むしろ江戸時代の武士の方が歐羅巴の貴族階級に近い。歐米人がサムライが大好きなのは、サムライが彼らが理解できる存在だからである。バロン(男爵)は軍人をも意味する言葉である。


日本の古代には、キミ(天皇)とオミ(公務員)とタミ(大御寶)がゐて、奴隸など何處にもゐない。日本は有史以來、世界でも珍しい自由の民ばかりの國だつた。


つまり、日本の歴史とは自由の民の榮光の歴史なのである。義務教育の歴史の教科書には、この事を明記すべきだ。自由の民とは、奴隸でないといふ事の西洋式の表現である。


次囘は日本人(普通の民衆)にとつて國(ネーシヨン)が何如に古くから成立してゐたか、を述べる。歐羅巴のネーシヨン(ナシヨナリズムもしかり)は近代の産物だが、日本はさうではない。


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