高島易断 古典の解釈超意訳 文章の仕上げ(レベル合わせ) 水地比その三 | 心の経営コンサルタント(中小企業診断士) 日本の心(古典)研究者 白倉信司

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「語呂合わせで学ぶ易占・易経入門」カード&テキストセット

写真右上が「語呂合わせで学ぶ易占・易経入門」のテキスト(B4見開き)です。

写真左上が「語呂合わせで学ぶ易占・易経入門」カードです。

写真中央が「カード」とセットになっている「サイコロ」です。

写真左下が「語呂合わせで学ぶ易占・易経入門」カード(製本版、A4見開き)です。

写真右下が「カード&サイコロと製本」を収納するケースと取り扱い説明DVDです。

 

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~これまで書いてきた文章をレベル合わせして仕上げます。~

 

水地比

□爻辞(象辞)と象伝(小象伝)

六四。外比之。貞吉。

象曰、外比於賢、以從上也。

○六四。外(そと)(これ)に比す。貞にして吉。

○象に曰く、外(そと)(けん)に比し、以て上に從う也。

九五と陰陽正しく比する地位に在るのは唯六四のみである。六四は外卦に在って内卦に正応なく、上の九五に比している。外卦の中で考えれば六四は内であり九五は外である。だから「外之に比す」と言う。政府に例えれば六四は執政の大臣である。九五の王さまに相親しむことのみを主とすれば阿(おもね)り諂(へつら)うことになりかねない。しかも陰柔不中なので自ら貞正を守って吉を保たねばならない。だから「貞にして吉」と言う。周公が苦労して天下の士に下り賢者に相親しんで君主を支えたことに似ている。「貞にして吉」とは、王さまの側近である六四のあるべきありようを示している。六四が変ずれば外卦兌となる。まさしく大臣たる者が外の賢士に相親しんで国政を執行して君主を支えれば、下卦坤の民は兌の潤沢を受けて集まってくる。だから象伝に「外賢に比し、以て上に從う也」と言うのである。九五は徳という面から言えば「賢」であり、位という面から言えば「上」である。六四が変ずれば沢地萃となる。萃の九四の爻辞に「大吉、咎无し」とある。六四が吉である所以である。

 

九五。顯比。王用三軀失前禽。邑人不誡。吉。

象曰、顯比之吉、位正中也。舎逆取順、失前禽也。邑人不誡、上使中也。

○九五。顯(あきら)かに比す。王三軀(さんく)を用ひ前禽(ぜんきん)を失ふ。邑人(ゆうじん)(いまし)めず。吉。

○象に曰く、顯(あきら)かに比するの吉は、位正中なれば也。逆を舎てて順を取り、前禽(ぜんきん)を失ふ也。邑人(ゆうじん)(いまし)めずとは、上の使うこと中なれば也。

「顯(あきら)かに比す」とは、相親しみ和合して柔順であることを天下に明らかにすることである。「三軀」とは、獣(けもの)を猟するのに三面から駆り立てて、一面は除くことである。「前禽を失う」とは、前面を開いておくから前面から逃げる獣を失うことである。「邑人誡めず」とは、天下太平にして治国の至れる在り方であり、村人を戒めることを要しないという意味である。九五は陽剛中正で尊位に在る。公明にして至って正しく寛大で仁徳に厚い大度量の人であり、億兆の民を和合し柔順に従わせる盛徳の明君である。君主が天下に親しむ道はまさに比の道を明らかにすることにある。心ばせ(意)を誠にして物を待ち、慈悲を人に及ぼし、天下に恵沢を被らせるのが君主の親しむ道である。ここにおいて大衆は自分から望んで人々と親しむことを願い、お互い親しもうとする。善に親しんで不善には親しまない。来る者は拒まず去る者は追わない。邪な心、恩や恵みを売る心で人の心を籠絡したりしない。だから「顯(あきら)かに比す。王三軀を用い前禽を失う」と言う。禽獣を田で狩猟するのは王政の儀式である。一面の囲いは解いて、禽獣が逃げられるようにしておくのは、仁心の至りである。また田の狩猟は大衆と憂い楽しみを共にするという意味もある。まさしく仁による恩が四海に満ちて禽獣にまで及ぶ。だから風俗は厚くなり風雨も時に順い穀物は豊作となり、飢え凍え盗まれるという憂いを知らない。万民太平を楽しみ戒めたり防衛したりする心配はない。上の者が行うことを下の者は必ず見倣う。上の者が親しむ道を明らかにすれば下の者が上の者に逆らうことはない。下の者に命令したり戒めたりする必要はない。吉の理由である。だから「王三軀を用い前禽を失う。邑人誡めず。吉」と言うのである。象伝に「位正中なれば也」とあるのは、九五の位が正中であることを言う。「逆を舎てて順を取り」の「逆」は去ること、「順」は来ることである。去り行く禽獣は失うに任せて追究しない。来る者は撫で去る者は追わないのである。これを「逆を舎てて順を取り」と言う。「上の使うこと中なれば也」とは、九五(上)は正中であるから民が親しむ道を明らかにすることができると云うことである。

 

上六。比之无首。凶。

象曰、比之无首、无所終也。

○上六。之に比するに首(かしら)(な)し。凶。

○象に曰く、之に比するに首(かしら)(な)しとは、終る所无(な)き也。

上六は陰柔で才能がない。比の終りに居て九五の陽に乗る。首(かしら)として力量不足である。その行いは恣(ほしいまま)で、惨(むご)い心で高位に在るから人と親しむことができない。常に己を是として人を非とする。賢人と交わって智識を増進することを知らない。自分の度量が小さく考えが偏っており卑しいことを顧みない。世に用いられないことを怨み、不平を抱いて孤立する。以上のようであるから大衆から嫌われて終りを全うすることができない。いわゆる「後るる夫は凶」とは上六のことである。時勢を見ると陽剛尊位に居て衆陰は九五に親しんでいる。比の道はすでに完成して、相親しみ相助ける関係は堅固になっている。今さら九五に親しもうとしても不可能である。進んで親しむ道を求めようとしても往く所がない。「之に比するに首无し」の象であり、終りのない理由である。だから「之に比するに首(かしら)无し。凶」と言う。之とは九五を指す。占ってこの爻を得たら、時勢を知らないために、君(指導者)に遇えない時である。首とは陽のことである。上六は九五に乗じているから「首无し」の象である。「首无し」とは上下の関係を云い、「終る所无き也」とは終始の関係を云う。