ぶっつけ本番? | 桃象コラム

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音楽(特にピアノ)、演劇鑑賞、料理、旅行、ヨガ、スポーツ観戦(フィギュアスケート、サッカーなど)を心のオアシスに、翻訳を仕事にしていつの間にか四半世紀。まだまだ修行中。

日本スケート連盟の小林フィギュア強化部長から、羽生さんが1週間前に練習を始めたと発表がありました。お母様から連絡があったそう。これは確実な情報。

 

よかったよかった。男子ショートまで1か月以上あるところで練習を再開できたんですね。先月の報告は、練習を始めたというよりは氷に乗って感触を確かめた程度だったのでしょう。

 

この情報がトップニュースになるなんて、さすがに日本は平和なんだなとちょっと思ったりもしましたが、とにかく良き知らせであることは間違いないです。もうこれ以上は慌てず騒がず、見守っていて欲しいと思います。ねぇ、メディアのみなさん。

 

私がフィギュアファンだということを知っている何人かの人から、「羽生は間に合うのか?」とか、「羽生はぶっつけ本番でも大丈夫なのか」と聞かれました。その都度、「大丈夫!」と自信をもって答えてきたのですが(笑) とても不思議に思っていることがあります。

 

「ぶっつけ本番」って、何?

 

「羽生はぶっつけ本番で五輪に臨む」とは、全日本を欠場して以降、ずいぶんと目に耳にしてきたフレーズなんですが、果たしてどういう状態がぶっつけ本番? ぶっつけ本番じゃないとしたら、どの状態をもって「準備万端」と言える?

 

もし、今季1試合も出ていなくて、まったく新しいプログラムで滑るのであれば、それは「ぶっつけ本番」だと思う。でも今季は2試合に出ている。しかも今季のプログラムは「バラード1番」と「SEIMEI」という、以前にも使っているプログラムのアップグレード版だ。エレメンツの構成が変わっている以上、まったく同じプログラムとは言い難いものの、曲はもう体に染みついているはずだ。なにしろ動画を見た回数は軽く3桁を超えるそうだから。

 

こういうところ、メディアは意地悪だなと思う。

 

以前と同じ曲を選べば、やれ「リサイクル」だの新鮮味がないだのと意地悪を言い、2試合を欠場すれば「ぶっつけ本番」だという。意味を深く考えずに、とりあえずキャッチ―な見出しを付ける、あまりよろしくないやり方だと思う。

 

フィギュアスケートの選手のみなさんはもとより、他の採点競技やバレエ、演劇、楽器演奏などの経験のある方は、ひとつのプログラムや曲に「完成」が無いことをよくご存じだと思う。これで完成、ということはない。だから「完璧な準備」もあり得ない。どんなに準備をしても、満足ということはなく、本番ではちょっとのことでミスが生じる。本番までの時間は限られていて、その中でできる限りの準備をする。そのアプローチは人それぞれだろうし、必要な時間も個人差が大きいだろう。

 

羽生さんが今季、バラード1番とSEIMEIを選んだのも、今となっては大きなメリット。「準備万端」へのアプローチは、新曲を使う時とは大きく異なるのではないかと想像している。

 

歌舞伎役者は、子供の頃から親の芝居を見て育つ。だから親の当たり役、すなわち自分が将来、受け継いでいかなければならない役は、物心つかないうちから繰り返し見て、家で「芝居ごっこ」をして覚えていく。長い時間をかけて覚えた芝居は、そう簡単には抜けないから、実際に舞台にかけるときの稽古日数はわずか2-3日しかない。これが全くの新作を舞台にかける場合には、少なくとも1か月の稽古が必要だという。

 

音楽家でも、一度さらった曲をもう一度演奏会にかけるのと、まったくの新曲をかけるのとでは準備期間は異なる。福間洸太朗さんがネルソン・フレイレの代役でブラームスの協奏曲2番を弾いたとき、準備時間は48時間だったそうだ。それは、福間さんがこの曲を以前コンクールで弾いたことがあったからできたことで、まったく初めて弾く曲なら48時間では足りなかっただろう。こういう曲のことをレパートリーと呼ぶのだ。

 

歌舞伎役者やピアニストとフィギュアスケーターを一緒にするのは乱暴だけれど、羽生さんのバラード1番とSEIMEIは、羽生さんのなかですでにレパートリーと化しているのだと思う。羽生さんのアプローチで準備を進めていけば、必ずや、「最高の羽生結弦」に近づいていくものと信じている。

 

今はただ、無事に平昌のリンクに立つその日を、祈りを込めて待っているだけです。はい、それ以上にできることは何もありません。 メディアのみなさんがなにを書こうが、誰がどんなコメントをしようが、氷の上で行われることがすべてです。

 

来月の今日には、もうすべての結果が出ています。今から緊張している… こちらも準備が整わない!

 

桃象