当ブログ613に登場した「のり代」さんの和歌です。そこでも述べたように、「のり代」さんは和歌を創ることが大好きでした。前々回に登場した伊藤鳳山は漢詩でした。当時は男子は漢詩を、女子は和歌をというような時代だったのかも知れません。

「のり代」さんが過ごしていた谷地町は、今話題に登場する大江広元の領地として知られています。「河北町ホームページ」に次のような「谷地町の歴史」があります。 
「この地方の開発は、平安時代初期に始まり、寒河江に入部した大江広元が領有しました。1390年頃、中条秀長が入部し6代にわたり谷地郷の開発に尽力し、後に、白鳥十郎長久が谷地城を築いて谷地本町を形成しました。白鳥十郎長久が最上義光に誘殺され、さらに大江広元の子孫高元も滅ぼされると、以後この地は最上家の統治下にはいりました。最上家の改易後は北部は戸沢藩領、中部以南は幕領山形藩領となり、幾遍歴を経て明治を迎えると、行政区改正により、西里村、谷地村、北谷地村、溝延村がそれぞれ生まれました。谷地村は谷地町となり、河北地方の中心となりました。昭和29年には谷地町、西里村、溝延村、北谷地村の1町3村の合併により『河北町』が生まれました。後に、元泉地区、荒小屋地区が編入され現在に至っています。」

 谷地町は地域の中心地として文化も高く、人びとがおおらかです。「のり代」さんは特に、母「千代」さんのもと、厳しく育てられたのでしょう。本を読むことや和歌を詠むことをことのほか好きだったようです。
「千代」は、江戸末期の儒学者で田原藩の藩校成章館の教授となった伊藤鳳山とその妻「順」の娘でありました。「千代」も「のり代」もそんな環境に育った女性たちですから、読書や和歌などのたしなみは相当高いものをもっていたようです。

 のり代さんの姿は、その子どもたちにいろいろな形で受け継がれているようです。父は特に、本を読むこと、興味をもって調べること、いろいろなもの、こけしやお菓子、植物などを集めたり研究したりして本を書くことなど、多岐にわたっています。その財産をどうするか、断捨離に苦労する日々です。