「祝途」とは転任する私の前途を祝し、この短冊を贈りますという有り難いお言葉です。

「ブログ 207」に次のように書きました。
「キツネノカミソリに初めて出会ったのは教員になった年でした。山形市立蔵王第二小学校が私の初任校です。山形駅から蔵王温泉行きのバスに乗り、半郷から急な上り坂となり、大きな赤い鳥居をくぐると学校です。」
 この学校で、優れた先生方にご指導いただきながら、私は楽しい2年間を子どもたちと過ごしたのでした。校長先生は画家でも有り、書家でも有り、和歌も嗜まれる多田広三郎先生でした。当時学校では、母校の卒業生である齋藤茂吉にちなみ、茂吉植物園を造る準備をしていました。多田先生は、「茂吉の和歌の短冊を贈る。欲しい和歌を選んでおくように。」と言われました。植物を描いたものをとお願いしたのがこの「小園」の句でした。
「小園の おだまきの花 野の上の おきなぐさの花 ともににおいて」

 歌集『小園』は、昭和24年4月に岩波書店より発行されました。この『小園』について、安森敏隆氏が「『小園』論 ー茂吉の歌集編纂意図ー」を書いておられます。この中に、昭和20年4月11日、茂吉が山形県上山の金瓶に疎開したこと、そして茂吉が歌集『小園』の「後記」に次のように書いていることを紹介しています。
「本集の名を『小園』としたのは、金瓶疎開吟のなかに、『小園のをだまきのはな野の上の白頭翁のはな共ににほひて』といふ歌があるのに縁つた。」

『小園』は、昭和18年から昭和21年までの作品により編纂されています。安森氏の論文には茂吉の苦悩が描かれていました。「八月十五日 水曜 晴レ 御聖御放送 八月十五日忘ルルナカレ 悲痛ノ日」(茂吉の日記から)

 私が選んだ一句の持つ意味がとても大きいことを知り、この一句がますます私の宝物になりました。昭和20年は、私の生まれた年です。