『扁倉傳割解彙攷刊誤補遺』は、「史記」に出てくる医者の話のようです。倉公(ソウコウ)と扁鵲(ヘンジャク)という2人の医師の話があり、これについて日本の医師浅井と多紀の2人が解説書を書いていました。鳳山がまだ江戸にいる時からそれを研究し、医学の講義もしておりましたから新たに解説書を書いていたのでした。仕事の途中で田原に戻りそれを完成させたのがこの本のようです。

それにしても難しい言葉を昔の人は使っていたものです。もう少し言葉調べにおつきあい願います。前回の資料の4行目に「屢々」という漢語があります。恥ずかしながら全く読めずいつもの『漢語林』で調べてみました。「尸」(シカバネ)に「婁」(ル)で、この音符の「婁」(ル)が「しばしば」の意味だそうです。「しばしば」は今もよく使う言葉ですが、こういう漢字とは知りませんでした。

この文章にはたくさんの四文字熟語が出てきます。「高歌酔吟」「轗軻不遇」「優游棲遲」です。四文字熟語ではありませんが「文翁の輿學」という言葉もありました。それぞれ調べてみました。

「高歌酔吟」、「高歌」は「高らかに歌うこと」、「酔吟」は「酒に酔って歌うこと」であり、まさに鳳山の最も得意なことだったようです。なお、「放歌酔吟」は少し人迷惑な方のようです。

「轗軻不遇」、これも不思議な漢語です。「轗軻」、いずれも「車」(クルマヘン)で「轗」「軻」「車の行きなやむさま」「物事の思う通りにならないことをいう」「人の不遇なこと」とあります。それに「不遇」が着くのですから、これまでの鳳山の生活が如何に不遇であったかを言っています。でも、多分、鳳山自身はそんなに不遇であるとは思っていないのではないかと思います。それについては後に。

「優游棲遲」、「優游」は「ゆったりとする」ことで「優游自適」とも使います。「棲遲」
(セイチ)の「棲」は「すむ」「くらすこと」で「遲」は「おそい」「おくらす」「休む」などで「棲遲」で「のんびり暮らす」となります。

そういう暮らしの中で、鳳山は「文翁の輿學にも比肩する」と阿部氏は書いています。この「文翁の輿學」とは何でしょう。「輿學」ですから学ぶことを盛んにしたということでしょう。「文翁」とは何でしょう。

「文翁」は「三国志」に出てくる学者で教育に熱心な人だそうです。自分自身学問に打ち込み、特に「春秋」に精通していたそうです。そう言えば鳳山もまた「春秋」の2文字を語るのに半日かかったのでした。文翁は学校をつくったり弟子を育て有為の人材としたそうで、全く鳳山もそうだったのでした。