学生時代最後の夏休み、都合で東京に出たとき、清蔵はたまたま公用で出張していた佐藤昌介先生に会いました。佐藤先生はそのころは札幌農学校の校長先生をしていました。東京での偶然でうれしくなり、清蔵は佐藤先生の宿を訪ねました。先生は喜んで、
「君はよいところに来た。僕は文部省より九州方面に出張を命じられた。旅費は出すから一緒に行かんか。」
と言いました。清蔵は大喜びで、生まれて初めて買った安物の背広を着て、臨時の秘書に化けて先生について行きました。


先生の出張は、九州にある農業学校の視察でした。いたるところで先生の教え子が教官になっており、みな懐かしく先生を迎えるのでした。もともと南部藩の仏国式訓練隊の少年太鼓隊員として秋田攻めに加わったという先生です。10数日を寝食を共にしましたが、先生は自分からは余り話をしませんでした。清蔵も、余計なことは言わず、黙って付き従い、自分でよいと思った手伝いをするだけでした。


ところが、清蔵が札幌農学校を卒業する数日前、突然佐藤昌介先生より呼び出しがありました。校長室に入るなり、
「今回、農業経済学の助教授高岡熊雄君がドイツ留学を命じられた。欠員が出来たから君を助教授に推薦したい。どうだ。」
と言いました。


清蔵は思いました。あの九州旅行の折、先生は私のことを観察しておられたのだ、失礼ながら私が先生を観察していたようにと。先生は東京での偶然の出会いをその観察の場として使うべく、私を連れて行ってくれたのだと。


清蔵はすぐに返事をすることが出来ませんでした。それから数日考えて、父豫(やすし)に手紙を書きました。
「母校の助教授に推していただくことはとても名誉なことであるが、恭吉が未だ勉学中であり、あや子もこれから学校に行かなければならない。私としては1円でも多く収入の取れる、台湾当たりに行くことがよいと思うがどうでしょうか。」


父豫の返事は「札幌に残れ」というはっきりしたものでした。これにより、清蔵の札幌助教授の時代が始まったのでした。清蔵はこの3年間を「札幌助教の燻った生活」と書いています。そうはいいながらも、清蔵は意欲的でした。よく分からなかった「農学」について研究し、4つの体系にまとめ上げる提案をしました。それは、農業経済学、農業史、農政学、農業経営学の4分野からなり、初年度において農業経済学と農業史を学び、3,4年で農政学と農業経営学を教えるべきであるというものでした。