清蔵が札幌農学校で最も影響を受けた先生は新渡戸稲造先生でした。


新渡戸稲造は盛岡藩士新渡戸家の3男として盛岡に生まれました。札幌農学校在学中にキリスト教の洗礼を受け、卒業後にアメリカ、ドイツへ留学し農学、経済学などを学びました。帰国後母校札幌農学校の教授となりましたが体調を崩し、群馬やアメリカで療養します。その間に妻や恩師に問われていた日本の伝統的な道徳教育についての考えを『 武士道』としてまとめて出版しました。その後、京都帝国大学や東京帝国大学で教鞭を取り、第一高等学校校長、東京女子大学学長などを歴任、また、国際連盟の設立時には事務次長に推され、スイスに渡り連盟の発展に寄与しました。


「米独両国の留学を終えて札幌に帰られたばかりの新渡戸先生はまだ三十代の青年で、私は予科時代に西洋史と英文学とを先生から教わり、大学課程では農学入門(後に農業本論という書物になったもの)を週二時間の講義を聞いたのみであったけれども、その感化が私の老年に至る迄持続されたることを思い合わすれば、青年教化の重要なることを感ぜざるを得ない。」(清蔵自伝『南米に農牧三十年』)


新渡戸先生はキリスト教の信者であり、アメリカ人女性を妻にしていましたから、その当時、西洋にかぶれた自由主義者だと陰口をたたく者もおりました。新渡戸先生の自宅で行われていた聖書の学習会に参加していた清蔵も、はじめのうちは「半ばはキリスト教のあらさがしをしてもの笑いにせんとの意地悪い、きたない下心さえもっていた」(同上)と書いています。


「しかし、新渡戸先生の西洋研究は、日本を大ならしめんがためであり、先生の自由主義は、日本国民を独立自尊の強き個人の喬木たらしめんがためであり、先生の宗教尊重の態度は常住坐臥にも神を伴う位、真面目なるものであることを知るに及んで、私がこれまで接した多くの人々に比し、格段の差ある高き人格であることを感じたのであった。」(同上)


聖書の講義の中で、「どうしても優れた人材とはなり得ぬと思うが、どう生きていけばよいのか」と問われた新渡戸先生はこう答えます。「これはなんでもないよ。聖書にあるように謙遜して世を渡るべきである」と。清蔵は、「私はおどろいた。そして大いに考えさせられた。積極の道尽きたるところにも神は消極の道を開け給うているという不思議な真理についてである。」(同上)


「私はそれからは新渡戸先生を崇拝して行けば文句はない。先生に接し得る場合はいつでもうれしく感ぜられるようになった。」(同上)清蔵は新渡戸先生にすっかり参ってしまったのです。