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「勝利の経典御書に学ぶ14」池田大作 vol.1
 
「勝利の経典『御書』に学ぶ14」
池田大作
聖教新聞社
定価619円
126ページ
2015年316日 初版発行
 
2015年 平成27年 6月8日 読了
 
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【目次】
上野殿御返事【刀杖難事】(御書全集1555ページ~)
高橋入道殿御返事(御書全集1458ページ~)
阿仏房尼御返事【畷堅固御書】(御書全集1307ページ~)
 
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「大白蓮華」に連載された、池田名誉会長講義「勝利の経典『御書』に学ぶ」が待望の単行本化。全人類の幸福のために説き残された日蓮仏法の真髄に迫りつつ、人生と社会の勝者となりゆく御書根本の生き方を綴っている。
 第14巻は上野殿御返事(刀杖難事)、高橋入道殿御返事、阿仏房尼御返事(畷堅固御書)を収録。
(出版社の案内より)
 
池田大作名誉会長の講義『勝利の経典「御書」に学ぶ』の第14巻が発刊された。
 「大白蓮華」の連載をまとめた本書は「上野殿御返事(刀杖難事)」「高橋入道殿御返事」「阿仏房尼御前御返事(畷堅固御書)」を収録。
 「自身の宿命転換を願い、広宣流布の実現を祈って、身命を惜しまず戦うところに、必ず幸福勝利の人生を開くことができる。生涯、素直に信心を貫き通した人が勝利の人です」と、名誉会長は綴る。
 広布の最高峰を目指す友の心に、希望の光を贈る一書である。
(聖教新聞記事より)
 
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「大白蓮華」に連載された、池田名誉会長講義の「勝利の経典『御書』に学ぶ」の単行本化です。
 
2012年12月号2013年2月号の講義が収録されています。
 
以下、ポイントメモです。
 
あらゆる大難は覚悟のうえで、何があろうが、広宣流布の大願は微動だにしない--。
その厳然たる師の姿に接して私は勇気百倍でした。若き日の戸田先生が牧口先生と行動を共にし、お護り申し上げたように、私もまた断じて戸田先生を護るのだ、との決意がふつふつと込み上げました。
その晩の日記には「吾人の、師につく決意弥々堅し」と書き留めてあります。 どこまでも師とともに戦い、師とともに大難を越えて広布の大道を歩む。この「師弟共戦」こそ、日蓮仏法の実践の真髄です。
「師弟共戦」の道を歩むためには、弟子は何よりもまず、師の戦いを知らなければならない。師は何のために戦ったのか。いかにして戦ったのか。いかにして勝利したのか。その闘魂と行動と智慧を、自らの苦闘の中で、生命に刻むことです。そして、弟子が現実のうえで、断固として戦い勝つことです(P8)
 
これまで時光は、経文に照らして、法華経の行者に難が起こることは何度も教わりました。時光自身も、周囲の圧迫や批判をはね返しています。しかし今度は、わが命に及ぶ事態も現実に起こり得るようになったのです。
門下たちの緊張感が高まる中で大聖人は、御自身が受けられた大難の意味を記され、弟子ならば、師と同じく厳然と大難を乗り越えていくよう綴られているのです。
大聖人は、命にも及ぶ大難に比べれば、その他の難。悪口罵詈され、住む所を追われ、讒言をされ、頭を打たれるなどは、「物のかずならず」、すなわち、小さいことだと言われます。そして、「色法」面と「心法」面の両方からの迫害を受けたのは、日本国の中で「日蓮一人」であると断言なさっています。
法華経の故に、これだけの大難を受けてきたのは、私一人しかいないではないか。私は、大難また大難の怒濤を、厳然と勝ち抜いてきたのだ。何ものにも揺るがぬ師子王の戦う魂を拝し、時光の胸中に勇気が涌き上がってきたに違いありませ(P15)
 
「逆縁の功徳」に関して付け加えると、法華経においては、固定的な不変の「敵」などという実体ではなく、その関係は、あくまでも法華経への「信」と「謗」という行いによるのです。
人類史を俯瞰すれば、一方を味方、他方を敵と決めつけて、敵を抹殺する。そうした陰惨な対立と分段が、あまりにも繰り返されてきたのではないでしょうか。21世紀の今日においても、民俗紛争や宗教に名を借りた政治紛争などの悲劇が続いています。
人間は、一度固定観念をもってしまうと、どうしてもそれに囚われてしまう。だからこそ、まず、自分の「心の壁」を破り、同じ人間、同じ生命という共通の基盤に立ち返ることです。誠実な行動と納得の対話で、ともに平和で幸福な社会の建設という理想を共有していくことです(P22)
 
続く御文では、草庵に押し入ってきた武装の者数十人に囲まれた中で、少輔房から打たれた時の御心境が綴られています。
「打たれたことは、これも法華経のためと思ったけれども、まだ凡夫の身であるゆえに、打たれている間は、少輔房が握る杖をも奪い、力があるならば踏み折って捨ててやりたいくらいであった。しかし、その杖は第五の巻であった(P1557)
理不尽な仕打ちを受ければ、誰でも腹が立つのは自然な感情です。それが、ありのままの凡夫でしょう。また、今日的な言い方をすれば、人権を脅かす暴力に対し、正義の怒りを燃やすのは、当然です(P29)
 
御文には、「自他の生死はしらねども御臨終のきざみ生死の中間に日蓮かならず・むかいにまいり候べし」と仰せです。
時光にとって、すでに刃傷沙汰の起きている法難の中で戦うことは、死をも覚悟しなければならなかったことでしょう。実際、5ヵ月後には熱原の20人の農民信徒が逮捕され、鎌倉に連行され、遂には3人が処刑される事態にまで進んでいくのです。
そうした状況にあって、何が起ころうが、師匠が自分の戦いを見守ってくださっている。生死を超えて、師弟は離れることなく、一緒にいるのだ。師の広大な慈愛に、どれほど時光は心強く感じたことでしょうか。師弟共戦の遠征は、まさしく三世永遠の旅路です。
何ものも断ち切ることのできない生命の絆で結ばれ、永遠に勝ち越えていけるのです(P36)
 
自身の宿命転換を願い、広宣流布の現実を祈って、身命を惜しまず戦うところに、必ず幸福勝利の人生を開くことができる。生涯、素直に信心を貫き通した人が勝利の人です。最後に勝つ人です。ここに信心の極意があります。
苦闘の中でこそ、真の人間が鍛え上げられます。
苦闘の中でこそ、強靭な鋼の意志が育つのです。
苦闘の中でこそ、人生の真実の涙を知ることができます。
そして、苦闘の中にこそ、偉大な人間革命があるのです(P38)
 
妙法の素晴らしさを伝える対話。その姿勢として何が大事でしょうか--。ある女性リーダーが、戸田先生に、お伺いしたことがあります。
先生は、逆に彼女に質問されました。
「生活といい、信仰といい、同じことではあるが、これらに最も必要なものは、何だろうね」
どう答えてよいか分からず、黙っていると、先生は言われました。
「それは『確信』だよ」--。
「新聞報道などを見ても、生活に負けていく人の姿は、皆『確信』が無くなったからだ。われわれは、大聖人様の御確信を、最高、最大のものとしていくことではないだろうか」
また戸田先生は、こうも語られています。
「御本尊があるから大丈夫だ。御本尊を拝んでいるから、自分は大丈夫だ。この確信が胸の奥底から出てきた信心は「一人前です」
「『いや、ああしなきゃダメ』『こうしなきゃダメ』などと、そんな心配はいりません。私は御本尊を拝んでいるのだ、今も拝むのだ。わが人生は大丈夫だという確信がつけば、大丈夫です。きょうから、こうなりなさい。幸せになるに決まっています」
戸田先生は、「信仰に対する絶対の確信」を強調されていました(P46)
 
緊迫した環境に置かれた門下を思いやられる、大聖人の深い心情が綴られています。
鎌倉から身延へ移られる時、大聖人は、通り道に住む門下に、あえて連絡をとられなかった。これは、この後にも重ねて述べられますが、目立つ行動によって、門下への迫害がかえって強まることを懸念されたからでした。
だから「決して、あなたのことを、祖略に考えているのではありませんよ。私は、迫害者をも助けようと思っているのですよ。ましてや味方のあなた方を、ないがしろにするはずはありません」と。
さらに「妻子をもつ門下が、日蓮から遠ざかることも、実はうれしいのです」とまで、仰せです。弾圧で所領を没収された際に、事情を知らない妻子や一族が嘆くようならば、自分に近寄らないほうがよい、という意味です。
門下の不要な摩擦を招いて迫害にあうことを賢明に避けるよう願われたのです。
御自身は、幾多の難を一身に受けながら、どこまでも門下の身を案じ、家族を苦しませることがないようにと、心を砕かれている。これが大聖人のお心です(P55)
 
どこまでも地道な「対話」「励まし」を通して、「希望と喜び」「張り合いと共感」の道を、どう開いていくか--、この点に、人知れず心を砕いていくのが、広宣流布のリーダーです。
特に青年は、進んで広布の最前線に飛びこんで、地味な苦労も勇んで引き受け、自身の成長の源泉としながら、人の苦労が分かる、また、どんな苦労も喜びに変えていける一級のリーダーに成長してもらいたいのです(P59)
 
私にとって最も大切なのは、一人一人の学会員であり、同志です。この方々が、一生懸命、まじめに、労を惜しまず戦ってくださったからこそ、広宣流布の大前進がある。そのことを私は、瞬時も忘れたことはありません。
この健気な尊い同志の方々が、無名の庶民の英雄の皆さんが「苦労したかいがあった!」「信心して良かった!」と、晴れ晴れと胸を張って叫べる学会を、これからも、いよいよ築いていただきたい。また、断じて築いていかなければならない。そのための大いなる躍進の年こそ「青年学会・勝利の年」であると、私は深く決心しております(P72)
 
仏法の「人間主義」とは、永遠に民衆の側に立つことです。これこそ、本抄に示された日蓮仏法の正道です。
民衆のために戦い、目の前の「一人」を心から大切にする。その根底に、人間の最高善の力に対する限りない信頼がある。この確信こそが「希望のスクラム」を築く力となり、未来を開くのです(P81)
 
カリフォルニアの空が澄みわたる19902月、アメリカの思想家ノーマン・カズンズ氏と語り合いました。
「人間最大の悲劇とは何か、それは、死そのものではない。肉体は生きていても、自分の内面で大切な何かが死んでいく。この“生きながらの死”こそ悲劇なのです」 人々の心に巣食う「無力感」や「シニシズム」の打破を訴えられてきた氏ならではの言葉が今も忘れられません。
「自分の内面の大切な何か」とは、本来、自分自身の生命に具わる偉大な力への確信といえるのではないでしょうか。
氏は、さらに、未来を担う青年に訴えるように語られました。
「人間として生まれてきたからには、だれにも共通した、尊い“使命”があります。それは、人間を信じ、信頼しあうことではないでしょうか。たとえ、どうしようもない悲劇に直面し、煩悶の中に人生の意味を見失ったとしても“人間を信ずる”という、人間本来の在り方は、絶対に忘れてほしくない。
“いのち”という、かけがえのない贈り物、それを、どこまでも肯定し、大切にしていく。他の人の人生を、感情を、絶対に否定しない。無上のものとして認め合っていく。 人間としての最も尊い、その信頼の心だけは放棄してはならない」と(P88)
 
大聖人は、まず大前提として、法華経の元意は、「一切衆生が皆、成仏できる道」を説かれたところにあると教えられています。
いかなる人も必ず成仏できるとは、すべての人が仏性という尊極の生命を具え、無限の可能性を有しているということです。さらにかみ砕いていえば、今現在、どんなに苦悩の底にあろうが、その苦境を破って、必ず幸福になる力が、自分自身の生命にあるということです。
この前提を忘れて謗法について論じても、それは単なる観念論になりかねません。
法華経にこそ、万人の成仏が説き明かされている。迷いや疑いの暗雲を払い、この根本の真実を素直に信じることです。そうすれば「成仏をとぐ」ことは間違いない。反対に、この一点を疑い、誹謗するならば「無間大城に堕つ」と仰せなのです。
要するに、自他共の人間の尊厳性を信じ切れるか否か。すべては、この本質から出発しているのです(P94)
 
※vol.2に続きます。