先日は近親者の納骨式に参列しました。

春の日差しを感じた穏やかな晴天の日に、あらためて故人への感謝の思いを捧げました。

私はありがたくも両親健在ですが、年齢相応に悲しい旅立ちを迎える人も周りに増えてきました。

 

 

小柄で腕力もないわりに今まで病気ひとつしたことがないですが、同年輩でも心身を患う人も出てきました。

半世紀でも生きてくると、いろんな人をお見送りする場面がありますが、そのつど涙がこみ上げ、厳粛に人生を振り返り、そして背中を押していただく思いになります。

 

 

 

死生観といいますが、人間は死を意識することからはじめて生へのドラマがはじまる。決して死を避けること、死を遠ざけることが生なのではなくて、生涯の終着点から逆算して今を意識することから、いのちがめきめきと湧き上がってくる原風景。


ちょっと不思議かもしれないですが、子どもの頃からそうでした。

人生という名のドラマは、まずゴールまでいっきに駆け抜けたイメージが降りそそいで、そのあと幼少期から一歩一歩、追体験的に現実の世界を生き抜いていく。

 

 

私は小学生のときから100歳まで生きると公言していますが、ありがたくもその日を迎えたときを意識して、昨日も今日も明日も、今を生きていると思っています。

お金も地位も肩書も、残念ながらあの世に連れて行くことはできません。


でも、どんなに辛い毎日でも、今を真剣に生きることで、お別れしてからも、この世に残せるものもあります。

人生ほんとうにいろんなことがありますが、つきつめるとそのために、私たちは生きているのだと思います。

 

 

お金がないと何もできない。お金を稼ぐからこそ、やりたいことができる。
 

こう力説する人がいます。ある意味、その通りだと思います。

でも、当たり前ですが、お金はあくまで手段です。

 

 

お金がないことで、人生の目的に向かうことができないなら、それは大きな問題です。

でも、なまじお金があることで、あるいは大きなお金を目指すゆえに、目的が揺らいだり、見失ったりすることもあります。

明確な目的が定まっていないのに、ただ不安を抑えるがために、お金を追いかけ、周りと競い合い、小さな成功に有頂天になるとしたら、もう一度、穏かに死生観にたちかえって自分のその日を脳裏に描いた方がよいかもしれません。

 

 

 

私は、まったくもってお金持ちではないし、何の肩書も地位もないけど、そんなものが欲しくて今を頑張って生きているのではありません。

日本国じゅうどこにでも(場合によっては世界中?)、会いたい人には会いに行けるし、好きな仕事は誰にも文句をいわれずとことん極めるし、食べたいものはまあ高級でも食べられるし、欲しい書物はどんな高価でも手に入れます。


もっとお金があれば、もっと早く効率的に事業を拡大できるのはそうかもしれないけど、ゴールからふりかえるなら、今の私に足らないのは圧倒的にお金以外だと、まあまあ冷静にそう思います。

 

 

両親とご先祖のおかげで、メンタルだけはそんなに弱くないので、もっともっとと、お金にすがらなくても、不安に駆られることがないのが幸せです。ほんとうにありがたいことです。

大それたことは何ひとつできない人間ですが、それなりに苦しい思いをしたとしても、自分しかできないことがある人生を与えられたことに、心から感謝しています。


あらためて、ご先祖様にありがとうございます。これからも、しっかり頑張りますほっこり

 

 

 

 



私の著書『多様化する人材と雇用に対応する ジェンダーフリーの労務管理』の書評が掲載されました🖊

 

 

「労働新聞」さん

 

 

 

『月刊総務』さん


 

発刊されてちょうど2か月になりますが、ありがたいことに各方面で手に取っていただき、講演のご依頼などいただいています。

ほんとうにありがたいことだと感謝しています。

まだ、お読みになってない方は、ぜひ一読いただけたら嬉しいです^^
 

 

 




早いもので、少しづつ季節がよくなってきましたが、日々の仕事をさらに頑張っていきたいと思います走る人