義烈空挺隊の記録_最終回 | 大東亜戦争ダークツーリズム~星になった彼等を想い声なき声を伝えたい

大東亜戦争ダークツーリズム~星になった彼等を想い声なき声を伝えたい

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亡くなった者は語る事ができない。ならば生きている者が亡き者の思いを代弁するしかない、その思いで戦争遺跡の周知及び戦争被害者の心に寄り添っていこうと思っております。組織や団体は大嫌いな一匹オオカミです。

○義烈空挺隊強行着陸時の読谷飛行場

○撃墜した機体から放り出されたと見られる義烈空挺隊員の遺体。


○米軍に撃墜されたと見られる機体。


○(恐らく強行着陸した爆撃機だと思われる)機内の待機場所から機銃座への通路で亡くなっていた義烈空挺隊員。


○戦争には良い戦争も悪い戦争も無い。

  すべての戦争が悪である。



○戦争指導者は戦後も生き残る。

 一部は東京裁判で罪を問われるも、うまく逃れた者達は責任を取らず、のうのうと生き長らえる。

国民に大きな犠牲を強いてもである。

それが戦争の現実である。



○戦争の悪は戦争指導者のみならず。

戦争で金儲けをした財閥・企業も同じく。

戦後、財閥解体したが有名企業となって今も存在する。(皆さんもよく耳にする企業名です)


○戦争は年寄りが始めて、若者が死ぬ。

ならば年寄りが戦えばいいだけの事ではないのか。



○どうして未来ある若者、国の将来を担う若者が沢山こういう死に様を迎えないといけないのだろう   か・・・。





 合掌!

 

  

「日本ニュース」の企画であった大峯淑生氏と、カメラマンの故藤波次郎氏。

 

取材で隊員達と寝食を共にした大峯淑生氏は、戦後出撃の日の様子を記している。

 

 

遠くに阿蘇山が見え、中岳の噴煙が真直ぐに立ちのぼる。雑木林の青葉が目にしみ、のどかな初夏を感じる。隊員たちと起居を共にし、私たちはすっかり打ちとけた。

 

皆が、自分の生い立ち、家族構成、故郷の山川のことを聞いてもらいたがり、遺書や遺品を彼らに託す者もあったということです。

 

窪添カメラマンは”ヒゲのおっちゃん”と親父ぐらいの年齢なので親しまれていた。

 

沖縄出撃が決まってから、寝食を共にして取材していた二人の宿舎には、隊員たちがウィスキーなどを手に、入れ替わり立ち替わり訪れてくるようになりました。

 

一番からだの小さい村瀬伍長は「韋駄天村瀬」の異名をとる二十歳の若者で、サントリーの12年ものをわれわれにすすめてくれたりした。



村上中尉は将棋盤を持って「一番願います」と私の好敵手だった。

 

飛行隊の長谷川道朗曹長は人なつっこい写真好きな青年で撮影機をのぞいて「見える見える撮りますよ。」・・・と無邪気だった。

 

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この画像は搭乗機に向かう長谷川曹長最後の姿である。


日の丸をずらしてあるのは、新婚の夫人の血書を見せる為だと云う。

 

あの時、夫人は妊娠4ヶ月だったが、その事を長谷川曹長は知っていなかったそうだ。

 

夫人は今もご健在であるが高齢の為、当時の記憶も定かでなく会話もおぼつかない状態なのだが、長谷川曹長の画像を目にした途端、笑顔を浮かべ当時の様子を思い出したそうだ。

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決行の日。

私たちは兵舎で最後の撮影プランに入る。

午後の時間か、静かなひととき。

チチ、チチと小鳥の声が耳に入る。

奥山大尉と渡部大尉の碁を打つ音がビシッ、ビシッと響いてくる。

木陰の下では、細面の諏訪部大尉が木片に小刀で観音像をコツコツと刻んでいた。

 

あと数時間で沖縄へ向かう隊員たちであった。

 

 

「隊長の訓示が終わって愛機に向かって行くときみんなニコニコ笑ってねえ。


わたしもほうぼうのの特攻隊に撮影に行ったけど、そのような悲壮感、全然ない、この部隊は。

 

 

ずっとこう飛び立っていく、夕暮れのところをね、だーっと機が見えなくなるまで回して。

本当にね、助手も録音係も、ぜんぜん口きかないで、三分か五分か・・・

じーっと、一点、飛び立った方向を眺めてましたねえ・・」

 



この光景が目に浮かんできそうですね・・・。



もう一つの証言があります。



 


 

健軍基地周辺の住民の証言から

 

 

 

昭和20年に入り、徐々に食糧が不足してくる世の中になり、痩せていく人を見るようになってきたのですが、近所の銭湯に筋骨逞しい若者達がよく来ていました。

 

 

聞く所によると、柔術や空手等の格闘技をされていたようで、それはもう素晴らしい体でしたが、皆さん親切で好青年という印象でした。

 



あの方々が沖縄に向かって飛び立って行って帰って来なかったのは後で聞きました。

 

  

皆さんの笑顔を思い出すと、いたたまれなかったですね。

 

 

 

 

 

小熊談

 

元々この隊はサイパン攻撃に出撃する予定で編制されたのであった。

 

しかし、出撃せず、次に決まった地は硫黄島。

 

しかしまたもや出撃は見送られる・・・。

 

死に場所を失った彼等にとって、それはある意味苦悩の日々だったのかも知れない。

 

その為に激しい訓練を積んで覚悟を決めて来たのだから。

 

沖縄出撃が決まってからはそりゃぁ晴れ晴れしい気持ちというか「やったるで~」という意気込みだったと思う。

 

そんな心の隙間に垣間見れるのが「生」への未練。

 

これは意識的では無く、本能的に表れてくる物であり、隊員の気持ちがたるんでるとかそういうレベルの物ではない。

 

いくら死ぬ覚悟はできていても、故郷や肉親を想う心は最後まで離れる事はないであろう。

 

彼等の心を思うと涙が出てきます。

 

 

 

世の中もまだ十分に知らない、1920歳の若者が国の将来の為に死なないといけないなんて本当に悲しい。

 

その若者が国の将来を築き上げる主役なのに・・・。

 

 

 

もうあの若者達は還ってこないけれど、せめてその尊い心だけは消し去ってはいけないと思います。

 

 

 

来月、四度目の沖縄訪問を行います。

 

その際、彼らが血を流した旧読谷飛行場跡を再び訪れて、何かを感じてきたいと思います。

 

絶対、彼らの事は忘れてはいけないです!!