陸上自衛隊前川原駐屯地幹部候補生学校編5(2014年4月) | 大東亜戦争ダークツーリズム~星になった彼等を想い声なき声を伝えたい

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亡くなった者は語る事ができない。ならば生きている者が亡き者の思いを代弁するしかない、その思いで戦争遺跡の周知及び戦争被害者の心に寄り添っていこうと思っております。組織や団体は大嫌いな一匹オオカミです。

陸上自衛隊前川原駐屯地・陸上自衛隊幹部候補生学校敷地内にある図書史料館展示物の中で「小野田元少尉コーナー」がありまして、又、今年一月にご逝去されましたので、小野田さんについてご紹介させていただきます。
小野田 寛郎(おのだ ひろお、大正11年(1922年)3月19日-平成26年(2014年)1月16日)は、日本の陸軍軍人、実業家。
最終階級は予備陸軍少尉。
旧制海南中学校・久留米第一陸軍予備士官学校・陸軍中野学校二俣分校卒。
情報将校として大東亜戦争に従軍し遊撃戦(ゲリラ戦)を展開、戦争終結から29年目にしてフィリピン・ルバング島から帰還を果たす。

生い立ち
大正11年、和歌山県海草郡亀川村(現・海南市)にて父・種次郎(県議会議員)、母・タマエ(教師)の間に小野田家の四男として生まれる。
旧制海南中学校時代は剣道選手として活躍。
中学校卒業後は民間の貿易会社(田島洋行)に就職し、中華民国の漢口支店勤務となり中国語を習得。
なお、長兄・敏郎は東京帝国大学医学部・陸軍軍医学校卒の軍医将校(終戦時最終階級陸軍軍医中佐)、次兄・格郎は陸軍経理学校卒の経理将校(陸軍主計大尉)で、弟・滋郎はのちに陸軍士官学校に入校し兵科将校(陸軍少尉)となる等、これら兄弟は何れも現役の陸軍将校であった。

軍歴
当時の小野田寛郎
上海の商事会社で働いていた昭和17年(1942年)12月、満20歳のため徴兵検査(徴募)を受け本籍のある和歌山歩兵第61連隊(当時61i本隊は戦地に動員中のため、その留守部隊)に現役兵として入営。
同時に61i留守部隊をもとに編成された歩兵第218連隊に転属、218iにて従軍中に甲種幹部候補生(予備役将校を養成)を志願しこれに合格、昭和19年(1944年)1月に久留米第一陸軍予備士官学校へ入校する。
卒業後、中国語や英語が堪能だった事から選抜され同年9月に陸軍中野学校二俣分校入校、主に遊撃戦の教育を受け、退校命令を受領(中野学校は軍歴を残さないため卒業ではなく退校を使用)。
11月に事実上の卒業後、見習士官(予備陸軍曹長)を経て予備陸軍少尉に任官。
同年12月、フィリピン防衛戦を担当する第14方面軍情報部付となり、残置諜者および遊撃指揮の任務を与えられフィリピンに派遣。
当地では14HA隷下の第8師団参謀部付(配属)となっており、その8D長横山静雄陸軍中将から「玉砕は一切まかりならぬ。
3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が1人でも残っている間は、ヤシの実を齧ってでもその兵隊を使って頑張ってくれ。いいか、重ねて言うが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」の訓示を受けている。
派遣にあたり、高級司令部が持っている情報は全て教えられ、日本が占領された後も連合国軍と戦い続けるとの計画であった。
なお派遣前、母親からは「敵の捕虜となる恐れがあるときには、この短刀で立派な最後を遂げてください」と言われ短刀を渡された(この短刀は帰国後に実家に帰った際に母親に返している。)。
同月31日、ルバング島に着任。
着任後は長期持久体制の準備に努めるが、島内の日本軍の一部の隊には引き上げ命令が出ていたため戦意が低いことと、小野田には指揮権がないため相手にされず、昭和20年(1945年)2月28日のアメリカ軍約1個大隊上陸後、日本軍各隊はアメリカ軍艦艇の艦砲射撃などの大火力に撃破され山間部に逃げ込んだ。
小野田は友軍来援時の情報提供を行うため、部下と共に遊撃戦を展開した。
ルバング島は、フィリピンの首都マニラの位置するマニラ湾の出入口にあり、この付近からマニラを母港とする連合国軍艦船、航空機の状況が一目で分かるため、戦略的に極めて重要な島であった。
日本敗戦後
昭和20年8月を過ぎても任務解除の命令が届かなかったため、赤津勇一陸軍一等兵(昭和24年9月逃亡昭和25年6月投降)、島田庄一陸軍伍長(昭和29年5月7日射殺され戦死)、小塚金七陸軍上等兵(昭和47年10月19日同じく射殺され戦死)と共に戦闘を継続し、ルバング島が再び日本軍の制圧下に戻った時のために密林に篭り、情報収集や諜報活動を続ける決意をする。
日本では昭和20年9月に戦死公報を出されたが、1950年に赤津が投降したことで、小野田ら3人の残留日本兵が存在することが判明する。
フィリピンは戦後間もなくアメリカの植民地支配からの独立を果たしたものの、両国の協定によりアメリカ軍はフィリピン国内にとどまることとなった。
これを「アメリカ軍によるフィリピン支配の継続」、またフィリピン政府を「アメリカの傀儡」と解釈した小野田はその後も持久戦により在比アメリカ軍に挑み続け、島内にあったアメリカ軍レーダーサイトへの襲撃や狙撃、撹乱攻撃を繰り返し、合計百数十回もの戦闘を展開した。
使用した武器は九九式短小銃、三八式歩兵銃、軍刀等であり、その他放火戦術も用いた。
この際、弾薬の不足分は、島内に遺棄された戦闘機用の7.7x58SR機関銃弾(薬莢がセミリムド型で交換の必要あり)を九九式実包の薬莢に移し替えて使用していた。
これらの戦闘において、アメリカ軍レーダー基地司令官を狙撃し、重傷を負わせる等、多くの戦果を上げている。
地元警察との戦闘では2人の部下を失い、最後の数年は密林の中、単独で戦闘を続行している。
30年間継続した戦闘行為によって、フィリピン警察軍、民間人、在比アメリカ軍の兵士を30人以上殺傷した。
手に入れたトランジスタラジオを改造して短波受信機を作り、アメリカ軍基地の倉庫から奪取した金属製ワイヤーをアンテナに使って、独自で世界情勢を判断しつつ、友軍来援に備えた。
また、ゲリラ戦での主な食料として、島内の野生牛を捕獲して乾燥肉にしたり、自生するヤシの実を拾っていた。
これにより、良質の動物性タンパク質とビタミン、ミネラルを効率良く摂取していた。
また、後述する捜索隊が残した日本の新聞や雑誌で、当時の日本の情勢についても、かなりの情報を得ていた。
捜索隊はおそらく現在の情勢を知らずに小野田が戦闘を継続していると考え、あえて新聞や雑誌を残していったのだが、皇太子成婚の様子を伝える新聞のカラー写真や、昭和39年(1964年)の東京オリンピック、東海道新幹線開業等の記事によって、小野田は日本が繁栄している事は知っていた。
士官教育を受けた小野田は、その日本はアメリカの傀儡政権であり、満州に亡命政権があると考えていた。
また小野田は投降を呼びかけられていても、二俣分校での教育を思い出し、終戦を欺瞞であり、敵対放送に過ぎないと思っていた。
また朝鮮戦争へ向かうアメリカ軍機を見掛けると、当初の予定通り亡命政権の反撃が開始され、フィリピン国内のアメリカ軍基地からベトナム戦争へ向かうアメリカ軍機を見かけると、いよいよアメリカは日本に追い詰められたと信じた。
このように小野田にもたらされた断片的な情報と戦前所属した諜報機関での作戦行動予定との間に矛盾が起きなかったために、30年間も戦い続ける結果となった。
末期にはラジオで日本の競馬中継を聞き、小塚と賭けをするのが唯一の娯楽であった。

1974年帰国
だがそんな小野田も、長年の戦闘と小塚死亡後の孤独に対して疲労を深めていった。
昭和49年(1974年)に、一連の捜索活動に触発された日本の青年鈴木紀夫が現地を訪れ、2月20日に孤独に苛まれていた小野田との接触に成功する。鈴木は日本が敗北した歴史や現代の状況を説明して帰国を促し、小野田も直属の上官の命令解除があれば、任務を離れる事を了承する。
3月9日にかつての上官である谷口義美元陸軍少佐から、文語文による山下奉文陸軍大将(14HA司令官)名の「尚武集団作戦命令」と口達による「参謀部別班命令(下記)」で任務解除・帰国命令が下る。
一 大命ニ依リ尚武集団ハスヘテノ作戦行動ヲ解除サル。
二 参謀部別班ハ尚武作命甲第2003号ニ依リ全任ヲ解除サル。
三 参謀部別班所属ノ各部隊及ヒ関係者ハ直ニ戦闘及ヒ工作ヲ停止シ夫々最寄ノ上級指揮官ノ指揮下ニ入ルヘシ。已ムヲ得サル場合ハ直接米軍又ハ比軍ト連絡ヲトリ其指示ニ従フヘシ。
第十四方面軍参謀部別班班長 谷口義美

翌3月10日にかけ、小野田は谷口元少佐にフィリピンの最新レーダー基地等の報告をする。
小野田はフィリピン軍基地に着くとフィリピン軍司令官に軍刀を渡し、降伏意思を示した。
この時、小野田は処刑される覚悟だったと言われる。
フィリピン軍司令官は一旦受け取った軍刀をそのまま小野田に返した。
司令官は小野田を「軍隊における忠誠の見本」と評した。
小野田の投降式にはマルコス大統領も出席し、武装解除された。
その際、マルコス大統領は小野田を「立派な軍人」と評している。
小野田は終戦後に住民の物資を奪い、殺傷して生活していたとすれば、フィリピン刑法の処罰対象になる。
小野田は終戦を信じられずに戦闘行為を継続していたと主張し、日本の外務省の力添えもあって、フィリピン政府は刑罰対象者の小野田を恩赦した。
こうして小野田にとっての戦争が終わり、3月12日に帰国を果たした。
小野田は足跡を残す事を恐れて暦は全て頭の中の記憶だけで把握していたが、30年の暮らしで6日間しかずれていなかった。小野田は発見時は51歳だったが、自分の寿命は60歳と決めていて、あと9年経って60歳になったらレーダー基地に決死の突入攻撃をして果てる覚悟だったという。

帰国以前
1950年- フィリピンミンダナオ島で日本軍敗残兵が投降した際、無為に島民に銃殺される事件が生じる。
復員庁では、日本軍将兵の無事帰国のため特別対策本部を設立する。
1951年- 赤津勇一元一等兵が帰国する。
残留兵の存在が明らかになるが、フィリピンの政情が不安定なため救出活動は行えず。
1954年- フィリピンの山岳部隊が日本兵と遭遇。島田庄一元伍長の遺体が確認される。
これを受けフィリピン政府は残留兵捜索隊の入国を許可する。
1954年5月、1958年、1959年5 - 12月 - 赤津元一等兵等投降者の証書に基き援護局職員および小野田元少尉と小塚元一等兵の家族、戦友によるルバング島の残留日本兵捜索が行われるが、未発見に終わる。
1959年(昭和34年)12月11日- 戸籍法89条に基づいて厚生省引上援護局は12月10日に「死亡日・昭和29年5月8日」として「死亡公報」を出し、翌11日に公示された。
なお、これに合わせて翌12月12日には故郷の和歌山県海南市にて親類の手により葬儀が行われた。
1969年5月31日- 第62回戦没者叙勲により、戦没者として、勲六等単光旭日章に叙される。
1972年1月 -アメリカ領グアム島で横井庄一元伍長が発見される。
日本兵の生き残りが今も各地に潜伏している事実が知られるようになる。
1972年10月19日 - フィリピンのルバング島にて警察軍に小塚金七元一等兵が射殺される。
1972年10月22日 - 25日 - 日本兵射殺事件を受け、厚生省援護局職員および小野田元少尉と小塚元一等兵の家族、戦友が逐次ルバング島に赴く。
遺体が小塚金七一等兵である事を確認する。小野田元少尉の捜索が行われるが発見には至らず(後に元少尉は捜索隊の存在を認知し、また密林の中で兄の姿を目撃していたが、アメリカの支配下の傀儡政権に強制されての行動だと推測していた事を告白している)。
1974年、一連の捜索活動に触発された日本の青年鈴木紀夫が小野田元少尉との接触に成功。
3月にフィリピンに投降し、日本に帰国。
3月12日16時15分から66分間にわたりNHKで放送された報道特別番組「小野田さん帰国」は45.4%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)の視聴率を記録。


以上ネットからの引用でした~。

個人的な意見としては、小野田氏については生還できましたし、その後も人生を謳歌できたでしょうから特に何の思い入れはありませんが、太平洋戦争で戦闘終了後も多数の日本兵がジャングルの奥で何年も数十年も人知れず存在していました。それらの方々を思うと胸が詰まります。
事実、戦後何年もの間、残留日本兵が現地人に発見され殺害された事件があります。
(目撃情報については怪しいものもあるが)
又、戦後、政府により何度も行われた日本兵捜索では姿は表さなかったものの明らかに人のいた痕跡が発見されたり、現地人が入って来ない山奥で就寝中の捜索隊テントに対して小石が投げられるなど、存在をアピールしているような事象が何度もあったとの事・・・。
僕が得た様々な情報から推測するに、恐らく1980年代後半から90年代前半迄は存在していたように思いますが以降は情報は皆無の為、戦後69年の現在となると既に息絶えているのでしょう・・・。
そしてジャングルの大自然は残留日本兵のあらゆる痕跡を覆いつくし、未来永劫発見される事は無いでしょう・・・。

せめて、魂だけでも極楽浄土で余生を過ごしているだろうと願うばかりです・・・。