4月10日(木)、午後からお天気が崩れるとの天気予報だったのに、太陽が雲を払いのけて、汗ばむほどの暖かい陽気となり、桜吹雪の舞い散る三鷹の街を9211歩(4キロほど)、先生のお話を伺いながら、文学散歩を楽しんできました。

※ここは、太宰治が眠る「禅林寺」。太宰は、森鴎外(森 林太郎)のお墓のそばに眠ることを希望したとか。住職さんは三鷹市民の大反発にも屈せず、お墓を許可。今では、太宰は三鷹市の発展にひと役買っています。

 

三鷹駅での待ち合わせは9時50分。

12人が集合し、資料が配られ、その中には散策マップもあって、大いに役立ちました。このマップがあれば、方向音痴のわたしも再度散策が楽しめる?

午前10時、総勢16名ほどが三鷹駅から文学散策へ出発。

 

最初に到着したのは、太宰が通いつめた小料理屋「千草」跡。太宰をともらうためにしばし亡骸(なきがら)を横たえていた場所がここ千草。

昭和22年7月から、太宰は小料理屋「千草」の2階を仕事部屋として使っていたそうで、ガイドの先生いわく「太宰は資料を見なくても小説が書けるほど、頭がよかったのでしょう。ただ辞書だけは持ち歩いていたそうです」とのこと。資料を見ながら書く作家ではなかったので、太宰には書斎などは必要ではなく、どこであろうと、小説が書けたということなのでしょう。

今はビルが建つこの場所が「野川家跡」。愛人で一緒に入水自殺した山崎冨栄が暮らしていた野川家の二階で、太宰は富栄と同居しながら(1947年(昭和22年)9月頃から亡くなる1948年(昭和23年)6月13日)まで、執筆をしていました。入水自殺をする6月13日、「グッド・バイ(未完)」などを残し、ここから玉川上水へ向かったそうです。

 

太宰が「ポケットウイスキーを買うのに通った「伊勢元酒店」の跡地に、2008(平成20)年3月、太宰没後60年と生誕100年を記念して、太宰治の文学サロンが開設されました。

この太宰治文学サロンは今は、三鷹市の太宰ゆかりの場所の中心施設となっています。サロンに入ると、真っ先にスタッフさんが太宰のパンフレットなどの資料を配ってくれます。

サロンの壁には、太宰に関する本がずらりと並んで、迫力いっぱい。

ガイドの先生が本棚の中から、太宰の原稿をそのまま書き写したという資料を開いて、見せてくれました。通常、目にすることができない貴重な資料。そして一旦、本棚から取った本は本棚には戻さずに、かごに入れるのがこのサロンの決まりです。

太宰の家の模型がサロンの真ん中に置かれています。

家にはほとんど頓着しなかったという太宰。それでも、三鷹の下連雀の自宅は6畳、4畳半、3畳という間取りで6畳間を書斎兼寝室兼客間とし、「走れメロス」や「東京八景」など、執筆に励んだそうです。太宰が一番長く住んだ家がこの家。また、この家は多くの小説の舞台にもなっています。この自宅には師や友人、弟子たちが頻繁に訪れたそうです。

井伏鱒二の紹介で昭和14年に甲府の教師石原美和子と結婚し、ようやく太宰は「家庭」を持ち、落ち着いた日々を送ることができました。

 

実はガイドの先生によると、太宰の人生は3期に分けられるそうで、1期が荒れた生活を送った時期、2期がこの下連雀で落ち着いた結婚生活の日々の時期、3期が小説家として辛い時期を過ごした戦後の時期となるそうです。

本棚の一画には太宰のお気に入りの「ポケットウイスキー」。粋な計らいに思わずニッコリ。次に来た時は、この椅子に座って、のんびり太宰の資料をのぞいてみたいですね。

太宰治文学サロンを出たら、また散策開始。交差点で、「三鷹は細い路地でも道がまっすぐですよ」と先生に言われて、道の先を眺めると、なるほど、細い道はどこまでもまっすぐに続いていました。

この通りを今度は右折して、中央通りに出て、太宰の本のレリーフ前へ。

「斜陽」の一部が書かれた本のレリーフ。ちょっと風変わりで太宰らしい趣きです。レリーフの下には、友人だった亀井勝一郎のエッセイ。太平洋戦争に突入し、国全体が戦意に燃えている時代、太宰はジャンパー姿で下駄をはき、夜な夜な吉祥寺の酒屋に通っていたそうです。「彼の仕事ぶりは実に規則的で、午前中に五枚なら五枚、必ず書く。一日の労苦が終わって、夕方にはゆっくり酒を飲むといった勤労者の生活態度を続けていた」と亀井はエッセイの中で書いています。


次は山本有三の「未来を見つける少年像」。

最も一般的な銅像らしい銅像ですね。山本有三の堅物らしい人物像が如実に現れた感じがして、ちょっと昔風(^_^;)。「この世に生きているものは、なんらかの意味において、太陽に向かって手をのばしていないものはない」と刻まれています。

 

さ、次は中央通りをちょっと長めに歩いて、太宰が眠る「禅林寺」へ。

立派な鳥居をくぐります。

真っ白な禅林寺の門を過ぎると、さっそく鴎外と太宰のお墓の道案内の看板を発見。

妻・美和子とともに散歩をしていて森鴎外のお墓を見つけて喜んだという太宰。

森鴎外の墓石には本人の希望によりペンネームではなく「森 林太郎」と掘られていました。

その鴎外のお墓の近くに太宰は眠っています。

今も根強いファンが遺体を発見した日でもあり、誕生日でもある「桜桃忌」に、大勢が集まって供養をしているそうです。

立派なイチョウの大木の下で、水補給をしたり、ガイドの先生のお話を聞いたり。すっかり春爛漫の陽気となり、コートを脱ぐ人、続出。

 

次は、山本有三記念館。そこまではちょっと距離があり、静かな住宅街の間をぬうように平和通りをどんどんと進みます。三鷹の井心亭(せいしんてい)に到着。

小説の「太宰治賞」の選考委員会は毎年、井心亭で開かれているそうです。この井心亭の向かい辺りが、太宰の住居があったという場所です。

 

更に平和通りを北上し、ちょうど歩き疲れた頃、大きな駐車場、大きな門構え、素敵な装いの洋館「山本有三記念館」がわたしたちを迎えてくれました。

入館料は300円。1F、2Fの部屋はそれぞれ趣向が凝らしてあり、じっくり見て回れます。パンフレットによると、代表作「路傍の石」や戯曲「米百俵」などもこの家で執筆されたとか。物に強いこだわりをもつ山本有三の目に留まっただけあって、大正の面影を残す、本格的な洋風建築の建物です。

レンガ造りの暖炉と、寄木のフローリング。天井も梁も、家具も、照明も、手が込んでいます。

白い壁にレンガが目立つアーチの扉や窓

 

扉も、取っ手も、鍵穴も、ひとつひとつが芸術品

 

庭も広く、池には鯉、竹林では、竹が風になびいてました。

庭先から見た山本有三記念館。まるでおとぎの国のよう。

庭には黒くて、まるでバラのような花ビラをつけた、珍しい種類のクリスマスローズが咲いてました。

 

山本有三記念館を出ると、すぐに玉川上水に出ます。この交差点から、屋根が草に覆われたジブリの建物も見えました。

玉川上水の桜は満開で散りゆく花びらが風にあおられ、絶え間なく舞い続けてました。

最後に石碑が目印の太宰が玉川上水の入水自殺をした場所に到着です。今はのぞき込んでもせせらぎ程度の水量ですが、その当時は水深2メートルもあって、土手から落ちて、たくさんの方が亡くなったそうです。土手から落ちると死ぬ、と恐れられていた玉川上水はその当時、「人食い川」とも呼ばれていたそうです。なんか、想像できませんよね?(^_^;)

 

3時間の「太宰治・山本有三の文学散歩」の足跡、いかがでしたか?今回の文学散歩は小金井市の市報で見つけたもの。成人大学の他に、さまざまな集いがあるそうです。たまには皆さんも市報のイベントに応募してみては如何でしょ?(^=^)