いつ、夫への愛情が変化してしまったのだろう・・・。信頼が消えるとともに、愛情もどんどん変化していった気がする。

 

結婚して、4年目ぐらいだった。夫の父親が亡くなり、半身不随の車椅子の母が残され、それまでは月に1回程度だった夫の親の介護がほぼ毎週となり、土日は泊まりがけで埼玉へ通っていた。その日、お玉に口をつけて、お味噌汁の濃さを加減していた時、ふいに義母が怒鳴った。「汚いんだよ!」

 

土曜日は朝からパソコン教室があり、午前クラスと午後クラスの教習を終えて、午後4時、家を飛び出し、車で埼玉に向かうのが常だった。車中の2時間ほどで、仮眠をとり、疲れを癒した。実家へ到着する前にまずはスーパーへ寄り、夕食の食材を買って、お年寄りの早い夕食時間に間に合うよう、慌てて夕食作りをしている、その最中の出来事だった。最初、何を言われているのかわからずにキョトンとしていたら、再度、「汚いんだよ」と義母はわたしをにらみながら怒鳴った。これが、おむつ交換はもとより、肛門を押さえて便を出すということまでやらせていたわたしに対する言葉か、とわたしは呆然と立ち尽くしていた。

 

実はこの時、夫はその場で全てを見ていた。だが、ひとことも言葉を発しなかった。悪かったね、のひとことがあったら、状況は変わっていたかもしれないと思う。夜までどうにか我慢したものの、この家で眠るのは到底、無理だった。「家に今すぐ帰りたい」と夫に告げると、夫は無言のまま敷いたばかりの布団を片づけた。そして、東京までの2時間余りの運転をしたのは心も体も疲れ切っていたわたしだった。「代わろうか?」のねぎらいの言葉さえ、なかった。そして、家に着くなり、夫はそのまま寝室へ消えた。

 

これが夫に対して、初めて芽生えた不信感だった。その後、大きなわだかまりとなって、事あるごとにわたしを苦しめた。この人は妻を守らない人、と気づいたはずなのに、その頃のわたしはまだ認めることができなかった。

 

それから、同じようなことが幾度も幾度も繰り返され、次第に夫への気持ちが変化していった。

 

まさか、わたしじゃなくて、ライン???

最後に夫が妻のわたしではなく、「ライン」を選んだ時、心の中で何かがストンと落ちた気がした。

端から見れば、優しく、人当たりがよく、社会性もあり、「女、ばくち、暴力とは無縁だよね、ボク」と自ら自負していたように、外面は模範の夫像だった。だが、外面がよかった分、一層の落差となって、夫はわたしを失望させた。妻を守らない夫・・・次第にもう、疑問にさえ思わなくなっていった。

 

最後の亀裂は、2021年、「●●●会という飲み会」から始まった。

●●●会は、他の飲み会とまるで違って、毎回、異様に長い飲み会だった。そして一度、12時間というあり得ない長さの飲み会になり、わたしはその時から、この飲み会を唯一、毛嫌いしていた。

 

国立劇場で行われる和楽器の演奏会を予約したのは数か月前。三味線を習っているので、和楽器による演奏を聴くのを楽しみにしていた。それが前日いきなり、「演奏会が終わったら、●●●会で緊急の集まりがあるから、悪いけど、夕食は外で一人で食べて」と言い出した。わたしたち夫婦がイベントなどで外へ出かけるのは再婚当初こそ頻繁だったが、その頃にはせいぜい年に1度か、2度の貴重な外出だった。だからこそ、イベント後は夫が予約するレストランで気の利いた夕食を食べて家に帰るというのが唯一、二人に残されていた習慣だった。夫は数日前にかかってきた電話で、わたしに一切相談することもなく、妻との夕食を平然と反故にしていた。

 

照明を絞った舞台に流れる簫(しょう)の音(ね)は、どこまでもゆるやかに透き通り、静寂の中、四方八方に吸い込まれていく。しかし、夫は早々に気が乗らないのか、身を入れて聴いてなかった。演奏時間が刻々と終わりに近づき、それでもなかなか終わらないとわかると、露骨に前かがみになり、イライラと身体を揺らし始めた。夫のイライラがわたしにも伝染して、わたしは舞台に集中することができなかった。

 

演奏会が終わると、夫は気ぜわしく国立劇場を後にした。わたしは黙って、下を向いて付いて行く。国立劇場の門を出て、通りにさしかかったとたん、「悪いけど、先に行くよ」と言うなり、夫はわたしを置いて、駆け出した。

 

その急速に遠のいて行く夫の後ろ姿を目にした時、わたしは言いようのない絶望感に襲われた。わたしを置き去りにして走り去る、この男がわたしの夫?・・・今まで我慢してきた数々の出来事が一気に押し寄せてきて、夫への感情が突如、激しい嫌悪感に変わった。

 

それから家庭内別居の日々が始まった。数日後、翌日がわたしの誕生日だと気付いた時、小さなトランクと共に、わたしは夜行バスで四国に飛んでいた。お遍路へ行きたい!心がそう叫んでいた。これ以上、傷つくことを、わたしはもう我慢することができなかった。

 

「返事、書いたんかい!」「あやまったら、つけ入られる!」。お遍路から戻って数日後、夫のスマホに書き込まれた文字を目にした時、言葉を失った。わたしを馬鹿にした、夫の息子のラインの書き込みだった。わたしは自分の子供たちよりも、常にこの息子を優先して、いろいろ尽くしてきたつもりだっただけに、この書き込みはグサリとわたしの胸を突いた。

 

実は、「W家」というラインに、なぜか、わたしだけが入ることができなかった。これもわたしの悩みのひとつだった。わたしは積もり積もった不満を夫にぶつけた。

「こういう書き込みがラインでまかり通るのも、わたしが「W家」のラインに入ってないからだよね。なぜわたしを「W家」のラインに入れないの? わたし、W●子だよね? わたしは名前だけの「W」ってこと? わたし、W家の人間として、できる限りの事はしてきたよね?でも、影では平然とこういう書き込みがまかり通ってた訳? 妻が馬鹿にされても守ろうともしないあなたも、わたし、許せない」。

 

そして、最後にわたしは腹を決めて、言った。

「わたしをW家のラインに入れないのなら、わたしも名前だけの「W」に徹して、今後一切、W家に関することは何もしないけど、それでもいいのね?」と言うと、思いがけず、「ああ、いいよ」と、あまりにもあっけらかんとした答が返ってきたので、わたしは一瞬、息が詰まった。

 

そして、ようやく悟った。ああ、そういうことだったのか、と。長い間、わたしを苦しめ続けた謎は案外簡単な理由だった。夫は最初から妻であるわたしを守る気などなかったのだろう。だから、常に自分の親や子を最優先にして、飲み会やラインですら、当然のように妻よりも優先することができたのだ。もうわたしの存在する意味はどこにも残っていなかった。

 

わたしは事の成り行きを夫の娘にきちんとメールで伝えてから、W家との縁を断ち切った。今まで曲がりなりにも頑張ってきたことが全て「無」に帰した気がして、心は色も音も失なって、深い闇へ沈んだ。

 

妻ではなく、ラインを選んだ夫・・・その夫は今はもうこの世にいないが、夫が守った「ライン」は、「W家ラインの保存」として、今も夫のノートPCに残されている。