1か月ぶりだろうか、小金井公園の散歩なんて、久しぶりだった。

新規に始まった抗がん剤治療「オニバイド」の副作用で、下痢が止まらず、nabeさんはすっかり参っていた。昼も半分近くは寝て過ごし、起きたかなと思うと野球やオリンピックのテレビ中継をひたすら見続け、体力作りどころか、せっかく頑張って築いた筋肉も今やげっそりと削げ、横から見ると、腿にはくっきりしたくぼみの筋が現れ、まるで仙人だ。

 

なんとかしなくちゃ、とわたしは気が気じゃない。ちょうど、この日は夕方、風が吹き始め、涼しくなったので、もしかしたら、という淡い期待から「散歩行く?」と、nabeさんに声をかけた。すると、思いがけず「行く」という返事が返ってきて、わたしのほうがびっくりする。

 

水入りボトルやムヒをポシェットに入れ、nabeさんの体力を用心しつつ、小金井公園に向け、ゆっくりと歩き出した。桜町病院手前の「大尽の坂(ダイジンノサカ)」と呼ばれる、ちょっとした坂道を上り終えた時だ、nabeさんがポツリとつぶやいた。

 

「アタマ、クサッタ」。

「え? 何?」と、わたしはうつむいて歩くnabeさんを見上げた。

「頭が腐って、身体も腐った気がするんだよ」

しばらく、その言葉を反芻して、あ、昨日の喧嘩のことか、と気づいて、思わず、わたしもうつむいた。

 

昨日の喧嘩は、がん患者と介護する側のアツレキだった。

オニバイドは、標準治療(アブラキサンとゲムシュタビン)とまるで違う。標準治療の「魔の3日目」は、オニバイドの場合、「魔の一週間」となり、患者の一番弱い所を襲ってくる。nabeさんはオニバイド点滴後、一週間目ぐらいから「下痢攻撃」に襲われた。

 

たった一日でも便が出ないとオロオロする神経質なnabeさんにとって、オニバイドの副作用の下痢攻撃は過酷な試練だった。トイレに行くたび、げっそりとした表情で戻って来る。下痢止めの薬を許容量の1日3回分を飲んでも、下痢は止まらなかった。

 

そして、ついにはnabeさんの体力はおろか、気力までも蹴散らした。「整骨院でトレーニングして来たら?」と言うと、「疲れてる」とひと言。「公園、散歩行く?」と尋ねると、「ムリ!」とトドメをさす。ああ、このままではダメだ、とわたしの胸中は波立つ。懸命に、言葉を変え、形を変え、いろいろとnabeさんに声をかけた。

 

「ちょっとそこまで、近所の公園は? 外の空気を吸うだけでも・・・」。わたしの言葉をさえぎって、「疲れてるんだよ!」と荒立った言葉で切り返されて、わたしの中で何かがはじけた。

 

「あなた、それでいいと思ってるの?」わたしがnabeさんを「あなた」と呼ぶ時はハラワタが煮えくり返った時だ。「一日中、寝てるか、ぼおーっとテレビを見てるだけだよね。歩かなきゃ、筋肉は落ちるし、体重も減るし、しまいには動けなくなるよね。そんなことでがんと闘えると思ってんの!」

 

わたしの剣幕にnabeさんは「もう寝る!」と吐き捨てて、2階のベッドルームへ上がっていった。こんなんじゃダメだ。どうしようもない!やる気ゼロの人間にかける言葉はもうない! 怒りというより悲しさが襲ってきて、目頭が熱くなる。泣くもんかと、キッと顏を上げる。こんなことで泣いていたら、もう先はない。泣くのはもっと先、わたしは泣くことさえ、こばんだ。

 

実はこの「散歩騒動」の前に、序章があった。

nabeさんの看病に集中するため、わたしは全ての稽古事をやめた。お蔭で時間はたっぷりある。そこで、ソファーのクッション作りを始めた。昔、熱中した「パフ」だ。

昨日(8/11)、完成。この長クッションは3週間ほどで仕上がった。

 

10センチ四方の小さなパーツをひとつずつつなぎ合わせて作って行く、根気のいる作業だが、次第に広がっていくクッションを見ると、充足感や達成感が味わえて、心がなごんだ。その作業の横で、nabeさんはグダ―っとテレビを見続ける。

 

この日、nabeさんは「腰が痛い」と言い出した。

当たり前だ。グダ―っとソファーに座るnabeさんの姿勢は「ずっこけ座り」そのもの。お尻と背中の2点で身体を支えるため、本来はお腹のほうへ曲線を描く腰椎が逆方向へ丸くなってしまい、腰椎ヘルニアへと移行する、お医者様たちが警鐘を鳴らしている腰痛の原因第一位の「ずっこけ座り」なのだ。

「ずっこけ座り」をしていると、まちがいなく腰痛は悪化していく。nabeさんのずっこけ座りを見るたびに、「深く座りなおして! 腰を直角にして、背筋を伸ばして」と注意していた。パフの作業の合間、nabeさんをチェックするが、すぐにずっこけ座りに戻ってしまう。いくら注意してもまたたく間にずっこけ座りに戻るので、段々と腹が立ってきた。

 

おまけに足を組んだり、テーブルに上に足を乗っけたりして、更に姿勢が悪化していく。「いい加減にしてよ。直す気あんの? 腰痛、どんどん悪化するだけでしょ!」とついに爆発する。すると、「もういいから、オレのことは放っておいてくれ!」と語気を荒げて、nabeさんは二階に上がってしまった。努力しない人間にかける言葉はない。わたしは固く口を閉じた。

 

この「ずっこけ座り」と「散歩騒動」の翌朝、nabeさんはわたしの前へやってきて、謝った。「ごめんね、昨日はボクが悪かった」。きっと、この日の小金井公園の散歩はこの詫びの一環だったのだろう。

 

ところで、小金井公園の散歩道には風の通り道がたくさんある。

夕方なので、風も涼しくなっていて、風の通り道を歩くと、ほてった身体に風が心地よく通り過ぎていく。「風、気持ちイイねー」「そうだねー」と普段通りの会話が生まれて、格別の気分転換となる。風はついでに、昨日のモヤモヤもきれいさっぱり、吹き飛ばしてくれた。

 

久しぶりの小金井公園の散歩だったので、たてもの園の前までしか行けなかったが、たてもの園前のベンチに腰掛け、携帯ボトルの水を飲みながら、しばし、おしゃべりを楽しんだ。

たてもの園の屋根は銅張りのりっぱな流線形だ。その屋根を見上げながら、(もうアタマ、クサッタなんて、言わせないから。アタマもカラダも腐らないよう、ちゃんとわたしがみてるから!)と心に誓う。久しぶりの外出に気持ちが浮き立つのか、nabeさんは行き交う人々をせわしなく目で追っていた。