今、北京に雨が降っている。気温は現在13度。今日の最高気温は15度の予報。ついこの前まで日中体温越えをしていたとは思えないくらい寒さが肌をさす今日だ。いよいよあと2週間で今学期が終わる。今週末は最終発表の準備が立て込んでおり部屋に缶詰になる予定だ。なるほど、雨という一字は、雨に降られたからこそ家の中に集った4人の物語を象徴しているのかもしれない。4つの少し斜めの点がこうも狂おしい。

 

そうであればこそ、いま部屋にいることを決めた筆者にとって、つまり、この室内という檻にいることが決まった筆者にとって、この雨は無に他ならないのではないか。部屋は人を外界へ無接続にさせる。そう考える向きもあるだろう。

 

しかしながら、それには否と言いたい。雨滴だけが"雨"が含むものではない。その空気の全てそのものが"雨"だ。だから部屋も"雨"だ。

 

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北京に雨が降ることは本当にめずらしい。珍しいと言っても、年間降水量にしてみればしっかりと600mmはあるわけだ。雨がないわけでは決してない。それでも、ほとんど毎日が晴れか曇りがあるような中で暮らしていて、かつ、冬の降水であればそれが雪であるわけであるから、時たまのこうした雨はめずらしく感じてしまう。

 

思えば、北京に来てからちゃんとした傘を使ったことがない。そもそも、ちゃんとした傘を持っていない。折り畳み傘は2, 3度は使った。それでもすぐに乾く。さすがに亜寒帯冬季少雨気候(Dwa)からステップ気候(BSk)へと北京が受け持つ気候区分が変更されただけのことはある。もっとも、個人的には大陸性気候なのではないかとは思う。一日の中の気の上下も、一ヶ月、ないしは、一年のもっと大きな見えない何かの上下も、まさにそれは大陸性のそれだと感じる。好まれないことを承知で気取った言い方をするとすれば、climateはweatherに内包されるというその具現化が北京にはある。

 

細かいことは置いておいて、ウラジミール・ペーター・ケッペンは今も変わらず筆者の心を揺り動かしている。分類ができるからこそ比較ができる。分類と比較をした先に、分類も比較も必要がない視界が広がっていると信じたい。つくづく、毎日が面白い。明日の最高気温は28度だ。