今回は、作家 神坂 次郎さん(1927-2022)の
作品を味わいたいと思います。
 
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「 祐夫の桜 輝夫の桜」
(『今日われ生きてあり』から抜粋)
 
戦後三十八年、夏がくるたびに戦争が論じられ
”特攻”が論じられています。 
が、わたしがこの目でみた隊員たちは、国家や
天皇といったそんな遠い存在よりも、もっと
身近かな、肉親や愛する人びとや、うつくしい
故郷、そんな"祖国”を救うために、自分が死ぬ
ことによって頽勢を挽回しよう、敗滅を遅らせ
ようという思いで出撃して征ったのです。
そんな純粋無垢な、使命感を抱いた自己犠牲の
死が進歩的と称する識者や一部のキリスト教徒
たちから、なぜ”犬死”と罵(ののし)られなけ
ればならないのか。
かれらの天に還った魂を愛惜し追悼することが、
どうして”軍国主義”につながるのか。
そんな新聞記事やテレビをみるたびに、
躰(からだ)がふるえる思いがします。
一つの時代を性急に現代の価値観で裁くという
ことには大きな誤りがあります。
その是非は、ながい歴史の歳月のあとで、
はじめて理解されるものとちがいますか。
 
戦後の日本人ほど、国の運命に殉じた人たちを
ないがしろにした国民もありません。
むりもないのです。 いまの高校教育では
”日本史”は選択科目なのです。
自分の国の歴史など知らなくても、ちゃんと
大学を卒業できるのです。
 
・・・自分のほうから攻めて行かなければ、
相手もまた攻めてこないのだという前提のもと
に唱える平和論など子供だましにすぎない。
・・・そうでしょう。 だいいち”平和”などと
いうのは、どういうことなのか。
かつて極東裁判は、連合国側を”平和愛好国”
とよび、日本などを”好戦国”という善・悪の
レッテルを貼りつけたものです。
ところが、その後に起きたベトナム戦争や
アフガン侵攻や、ポーランドの悲劇にせよ、
すべて”平和愛好国”間の流血ではないですか。
その殺戮が、残虐が、かれらの云った
”平和”なのですか。
 
口先きだけでなく、ほんとうの平和を叫ぶの
なら、相手が攻撃してくれば無抵抗で殺され、
死んでもいいというくらいの覚悟をしておか
ねばならぬのとちがいますか。
 
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実際に戦争を経験された人の言葉は
とても重みを感じます。
自らの体をもって体験した上での言葉と、
単に頭で考えただけの言葉では、その重さに
雲泥の違いがありますね。
 
いま、この日本の、戦争のない状態が
どれほど多くの先人たちの生命、努力に
よって導かれたものなのか。。。
当たり前のものではない、有り難いもの
だなぁと思います。
 
一方で、戦争はいけないことだと分かり
ながら、庶民は戦争に巻き込まれていく。
そのからくりを見極めなければいけないなと
思います。
「他国が攻めてきて、お前の父母や女、子供が
殺されるぞ」と追い込まれたり、戦いに参加
しなければ「非国民だ」「弱虫だ」「卑怯だ」
と罵られたり、罰を与えられたり。。
あの手、この手で、戦争を正当化していく、
戦争を正当化するルールを作っていく、
戦争に参加しなければいけないような環境を
作っていく。。
いま戦争している国なんか見ると、結局、
そんな感じですよね。
そしていったん戦争が始まってしまえば、
「被害」が発生し、それに対する報復が始まり、
泥沼化して、終わりが見えなくなる。
 
だから、戦火が起きてからではもう遅い。
火が生じないように過ごさねばならない、と
いうことだと思います。
 
「聖人不治已病治未病」
(黄帝内経四気調神大論)
 
2000年以上前に成立したとされる中国最古の
医学書、黄帝内経(紀元前200年頃)の言葉
です。
病気になる前に治療をする、病気にならない
ように調整する。
難しいことですが、争わないように、
ぶつからないように、どうすればいいかを
頭で、体で、心で探っていくしかないなぁと
思っています。
 
あと、「覚悟」という言葉。
僕らはどれくらいの覚悟で生きているのか。
どれくらいの覚悟で「平和」だとか、「多様性」
だとか、「権利」だとか、「SDGs」だとか、
「国民のために」、「子供たちのために」など
と言っているのか。。。
 
今年の7月に行われた東京都知事選。 
過去最多の56名の候補者がありましたね。
「これが、これからの多様性、個人の権利と
いうものかねぇ?」と思いながら見てました。
選挙ポスターの掲示板も、掲示枠を売買され、
政治と無関係なポスターで占拠される事態も
起こりましたね。
今後、そんなことを阻止するためのルール
作りがされるんでしょうが、そんなルールを
わざわざ作らねばならないという世の中。
情けないなぁと思います。
 
「ここから先は入らないでね」という意味で、
結界というものがお寺や神社に置かれています
ね。竹や木材を横にしてある柵のようなもの。
当然、そんなものは、飛び越えたり、隙間を
抜けて中に入ったりできるものですが、
暗黙の了解で中には入らない。
それが自(おの)ずから然るべきところ。
そういう然るべきところを大切にしたい
なぁと思います。
 
小手先の小賢しい(こざかしい)言動が
なんのふるいもかけられずにダイレクトに
公共の場に出てきてしまう時代。
それが「自由」であり、「権利」であり、
「個性」であると言い張る時代。
 
まるで、「選抜」高校野球ではなく、
「無選抜」で、とにかく甲子園の土を踏んで
みたいと、土足で甲子園を汚していくような。。。
その汚れをあたかも自分の「証(あかし)」の
ように誇るような。。。
 
「責任」と釣り合わない「権利」。
ある意味、非常に暴力的だと思います。
 
そういう暴力的な事態に対して、どういう
心構えをすべきか。
観光客が殺到した、富士山の見えるコンビニの
ように、バリケードを張り巡らして、景色を
見えないようにするような、こちらもある種、
強制的な、暴力的な対処をしなくてはいけない
のでしょうか。 
 
これからの時代、僕たちは、そして僕たちの
子供たちは、それなりの「覚悟」が要りますね。
 
不登校やひきこもりの方が増えていますが、
その原因は多岐にわたれども、根本は
「自己防衛」だと思います。
目の前の環境から、もう逃げるしかない、
あるいは無視するしかないというところに
追い込まれたり、追い込んだり。。。
 
覚悟とは、自分の中に「中心をもち」、
「軸をもつ」ということ。 
そして、戦うでも、逃げるでも、無視する
でもなく、ぶつからずに「つながり」、
自分の暮らし、生活を「まわす」こと。
さらに、意識して「まわす」ところから、
意識しなくても自然と「まわる」ところを
探すこと。
自(おの)ずから然るべきところに至ること。
 
多様な楽器が
個々それぞれの良さを活かしながら
ある一つのメロディーを奏で
美しい曲を作り上げていくように。
 
ギターの複数の弦が
ある一定の場所で
透き通った
ハーモニクスの音を奏でるように。
 
自ずから然るべきところを探求する。
 
それが科学であり、宗教であり、政治
であり、教育であり、人生であると
思います。
 
覚(さと)る
悟(さと)る
目覚めて、悟る。
 
 
 

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しぜん まるごと

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まるごと いかす

まるごと クラス

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