「大丈夫ですか?」
学校職員が心配そうに上村を覗き込んで、かがんで上村の手から滑り落ちた卒業アルバムを拾い上げた。
こめかみに右手を当てながら天井を見上げた上村は、次の瞬間、学校職員のほうを振り向いて真顔で、
「究極の美を見た!」
と心に思ったことを発してしまった。
「は?」
驚く学校職員の反応を見てやっと我に返ったのか、少し顔を赤くして
「あっ失礼。大丈夫です」と言って、いったん深呼吸をした。
深呼吸をしたら正気に戻ったのか、
「すいません。大丈夫です。今さらですが、中学時代に好きだった人のことを思い出してしまいました」
それを聞いた学校職員は柔和な表情で、
「そうでしたか。みんな同じような思い出はありますよ!私も含めて。
去年、恵庭で中学の同窓会があったんですが、その時、初恋の人と再会したんですけど、まあ再会して良かったんだか悪かったんだか、
それになりに歳を重ねていくとね・・・。思い出は思い出のまま心に秘めてた方が良いと思いましたよ。
同窓会とか参加してないんですか?」
「はい、なかなか北海道に来る機会もなくて」
「広島からだとなんまら遠いですよねえ。上村さんは吹奏楽部だったんですか?卒業アルバムも吹奏楽部のページもじっくり観てたようで」
「あっはい、吹奏楽部でした」
(そう、自分は吹奏楽部だった。その後高校、大学まで続けた吹奏楽は、社会人になってから忙しくて全くかかわることはなくなった)
学校職員は上村の気持ちを察したのか、
「では、次に音楽室と体育館をご案内しましょう。音楽室はちょうど今、吹奏楽部が練習してますよ!」
と言って上村を資料室から連れ出した。
廊下を歩くと、上村がいた頃とほとんど変わってない。
本州の学校と違って寒冷地なので廊下の窓側の下には、暖房用のスチームヒーターのパイプが廊下に沿って続いてる。
給食調理室や各教室の前には、学校行事の案内や、生徒会が決めた校内での身だしなみについて書かれた注意事項や、
清掃、整理整頓を促進するスローガン、その他学校生活諸々のことが書かれた掲示板があり、
今の世代の子たちの学校生活を垣間見れた。
春休み中なので、ほとんどの教室は静まり返ってるが、部活動に来てる生徒とたまに廊下ですれ違う。
すれ違う生徒は、学校職員と一応来客である上村の姿を見ると、
「こんにちは」と言って、必ず立ち止まって一礼してからすれ違う。
上村がいた当時は、けっこうやんちゃな生徒が多かったが、今はだいぶ様子が違うようだ。
皆、礼儀正しく、まじめそうに見えるけど、見方を変えれば画一的で個性がないような感じに見えなくもない。
階段を上がって校舎の2階に行くと、吹奏楽部が合奏練習してる音が聴こえてくる。
吹奏楽の響きは、オーケストラとはまた違った独特な響きがある。
あの頃、毎日耳にしてた音。
音楽室の前に立つと、それは鮮明に蘇った。
廊下からは見えなくても、音楽室の中で、顧問が座る指揮台を中心に扇状に一番人数の多いクラリネット、そしてサックス、オーボエ、ファゴットといった木管、その後ろにホルン、トランペット、トロンボーン、ユーフォニウム、チューバの金管とパーカッション。
それぞれの楽器を構えた生徒たちが、顧問の振り下ろす指揮棒に注目し、呼吸を合わせて音を出す。
外から漏れ聴こえてくる音に、室内の風景を想像した。
聴いてると、合奏練習は、曲の展開部のところを、何回も繰り返してる。すぐに演奏が止まり、
その都度、顧問の声と思われる大きな声が指示を飛ばしていた。
「そこクラリネットとサックス!出だし合ってないよ!ちゃんと譜面見て。ユーフォはそこは対旋律だからもう少し出ていい!
じゃあもう一回!さん、しい!」
廊下で合奏の音を聴いてると、自分も音楽室の向こうにいるような感じがする。
上村のいた頃の吹奏楽部も、顧問は女性だったが、ミスをすると指揮棒が飛んでくるくらい、かなり厳しかった。
あの頃は無我夢中でフルートを練習した。
朝練、放課後、週末も、春休み、夏休み、冬休みも。
テスト期間中以外は一日の大半を部活と生徒会役員に費やした日々。
何度練習してもうまくいかない時、先輩や同級生の才能を妬んだり、部活内の揉め事、
吹奏楽コンクール本番前の緊張、全員が一つになって渾身の演奏を終えて、ステージ上で拍手と喝采に包まれた時の達成感。
あの充実感は、やりきった者でしかわからない。
あの頃の自分はなぜそこまで出来たのか?
それに比べて今の自分はどうだ?
あまりにも情けない社会の負け組、年齢的にも賞味期限切れ。
そんなことを思ってると、
「吹奏楽部は一昨年、コンクールで全国大会にも出場したんですよ!」
学校職員が誇らしげに言った。
「そうなんですか!全国大会にまで」
これには驚いた。そんなにレベルが上がってるとは、確かに今廊下で聴いてても分厚い響きと時折聴こえる一人一人の演奏技術は、中学生ながら上手いと感じる。
「中にご案内しますよ」
そう言って学校職員が音楽室のドアを手にかけたが、
「いや、ここで充分です。皆さんが真剣に取り組んでるのが、聴こえてくる音でよくわかりましたので」
(今の自分は、この中に入る資格はない)
そう思って音楽室を後にした。
つづく