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ジェームズ・リーは東京在住の安田和夫がという物書きが石田陽子と手に手をとり、
自分のことを嗅ぎつけ始めた情報を耳に入れた。
後を追い、テニアンに渡り、二人の前に忽然と現われた。
彼の意の掛かった髭男を通して、
リゾートホテルのレンタカーショップに安田と陽子を誘き寄せた。
二人がサイパンに渡る前日に陽子のアパートのエレベーターで、
彼自身の姿を見せるという餌を巻く作業にも抜かりなかった。
ジェームズ・リーは自問自答した。
あの二人の日本人はいったい俺の何を狙っている?
ポーカーハウス!
彼は生まれついてのアメリカ人であっても、
両親は日本人と中国人の移民一世に過ぎなかった。
夫妻は日中両国でも少数民族のマイノリティで、
彼は両親の母国、日本にも中国にも親近感などなかった。
両親を蔑ろにした日本と中国への歪んだ憎しみの情はあっても、
憧れや懐かしさなど持ちようがなかった。
ただ、父親の出身地である沖縄にはどうした縁か、
たった一年ではあるが滞在経験があり、
そこでの経験と人脈を否定はしない。
俺が今こうして、飯の種に困らないのも父と母と沖縄あっての物種だ。
両親はそれぞれ、戦後、太平洋の荒波を渡ってカリフォルニア州の山中で出会った。
そこがハイスクール卒業まで過ごしたジェームズ・リーの故郷でもあり、
そこから最寄の大都市サンフラシスコに出るまで、
鉄道を使っても車を使っても、半日を費やさなければならなかった。
ジェームズ・リーは物心ついてから山ばかりを見て過ごした。
だから、初めて海を見たときのことを鮮明に覚えている。
あれは彼が地元の小学校に入学する直前の夏の日のことだった。
8月、それまでの努力の甲斐あって両親が手にしたアメリカのパスポートを記念して、
父が知人から借りたキャンピングカーに釣り道具や水着や簡易な食事セットを詰め込み、
カリフォルニア州からオレゴン州の山中を抜け、海岸沿いを走り揺られ、
北上し、カナダ国境近くのワシントン州の島まで旅した。
左手に大きな山を抱いた麓を抜け、運転席の父親と隣で母親と挟まれたベンチシートで、
彼はこれからの小学校生活と同時に今向まいつつある島についての空想に憑依つかれた。
家族三人だけで過ごした長旅は後にも先にもこれきりだった。
海峡から引き込んだ入り江の淵、辺りは人っ子一人いなかった。
小河のようにせらぎが響く丘陵地の裾に父がランニングシャツ一枚になって額から汗を流し、
杭を打ち込み、
母が手伝って張ったテントの中で星空と月夜に包まれ、
川の字で、父と母と彼と寝袋に包まって休んだあの夜のこと。
過去を振り返らず、振り返りたがらない父が何気なくふと洩らした思い出話しは、
あの夜以来、彼の心の底に生き続ける。
太平洋の浜辺の遥か向こうに、彼の愛する両親が残してきた故郷がある。
ジェームズ・リーは父と母が日本人と中国人であることを知った。
両親がアメリカ人となってパスポートを手に入れた意味を知った。
夫妻は一人きりの大事な息子をアメリカ人として育てたかった。
自分たちの母国、日本と中国のマイノリティに属するルーツについて語らなかった。
両親は家で下手なりに英語だけで通した。
しかし、島に辿り着くまで運転席越しに数年ぶりにさんざん眺め尽くした太平洋に、
まず父の気持ちが変化した。
父はこの海に特別な感情を、生きる死ぬを超えたものを持っていた。
母も概してそのようだった。
口数は少なくとも、母の表情だけで、少年は愛する者の気持ちを理解できた。
10年後、ハイスクールに入学したジェームズ・リーは、
それまでの中古住宅から新築の家へ移る引っ越しゴミの中から、
偶然両親の秘密を知った。
それが彼に生まれてから幼少期、
かかんな少年期まで過ごした故郷カリフォルニアの山中の故郷を、
愛する両親まで捨てさせる遠因ともなった。
彼は自宅のリビングで寛ぎながら、
電話で彼の腹心であるのマイアミ・ビーチのジョニーを呼び出した。
「あの女の様子はどうだ?」
ソファーにひっくり返って、
彼はいつものように尊大に言った。
「ミスターもご存知のように相変わらずです。
仕事とホテルの往復以外は目立ったことはありません。
たまにミミさんの所に行って、
ミスターの情報を仕入れているようですが」
ジョニーは仕事上では同僚以外の、上司や客に対して、
電話であれ何であれ、安田で誰であれ、
男と見れば、ミスターと言うのが口癖だった。
この時、ジョニーはジェームズ・リーへの一日一度の業務連絡を果たすため、
ホテルのフロントで一人コーヒーを嗜みながらも、
電話口で日本人のように律儀にボスに頷いた。
「それで、男からの便りはあるのか?」
彼は言った。
「ミスターもご存知のように、今はインターネットの時代です。
サイパンと日本を結ぶものは何も郵便だけではありません。
郵便なんてもう過去の遺物でしょう。
メールでやりとりされたら、どうにも手出しができません。
郵便ではサイパンと日本の間で、早くても3日や4日はかるでしょう。
メールは一瞬です。
安田も日本からのメールでこのホテルの予約をしたのですから」
ジョニーは応えた。
「そうだったな。
それで、盗聴が得意なお前はメールでも」
「考えたこともありません」
ジョニーはボスの言葉を遮った。
「それに携帯メールなら手出しができません」
フロントの中で、携帯電話を持ったまま、ジョニーは顔を顰めた。
「それで、あの女と男の接点は何だ?」彼は問い正した。
「いくらわたしでも、解りません。
単に偶然でしょう」
ジョニーは声に感情を表さず応えた。
「でも、お前はあの男が臭ったんだな」
ジェームズ・リーのあまりに執さにジョニーは応えた。
「はい、そうです。
日頃、ミスターから言われているように、
日本からの客には予め網を張っているのですが、
昨年の暮れにやって来た卒業旅行の陽子に比べ、
東京で何をやっているか解らない風来坊の安田は要注意マークでした。
二人の出会いは解らずじまいですが、
想像するに彼女の勤めるレストランに安田が客として入った。
多分、そんなところではないでしょうか。
そんな安田がホテルに陽子を連れて来た時から、
いえ、二人が出会った時から何かが動き始めていたのでしょう。
空港まで出迎え、初めて安田に会った深夜、
後部座席の彼から聴きだしたのは、サイパンに数日滞在し、
その後、テニアンに渡るということでした」
「往はフェリーだったな」
ジェームズ・リーが言った。
「はい。
わたしが安田に頼まれて、
フェリーターミナルまで連れて行きました。
言われるまま、ミスター所有の陽子のアパートまで、
車で迎えに行った時など、知らぬはこいつ等ばかりなりと、
舌打ちしたのを今でも覚えいます。
二人を見送って、ミスターにお電話したのです」
ジョニーの回想は続いた。
「そうだった」
ジェームス・リーははついほんの最近の出来事にも、
通り過ぎた昔話しのように振り返った。
「俺は陽子の郵便ポストに種を撒いていた。
お前の報告で空港に出向いて、俺はセスナに飛び乗った」
「そうでしたね。
あれはミスター、ポーカーハウスの連中を使ったのですか?」
ジョニーはボスに尋ねた。
「お前の知ったことじゃない。分をわきまえろ」
ジェームズ・リーは急に怒鳴った。
「失礼しました」
ボスに怒られて身が引き締まったジョニーが応えた。
「日本人は何をするか解らないからな。
特攻なんていう、神業を生み出すくらいだから、
用心に越したことはない」
ジェームズ・リーは唾が詰まって咳払いした。
彼のちょっとした異変に感づいたジョニーが気遣った。
「ミスター、大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。たいしたことはない。
心配するな。
お前、あいつ等の復りは迎えに行かなかっただろう」
「はい、ミスター。
当日、安田から最予約が入った際に、わたしたが対応しました。
わたしは安田に、
『空港に着いたら電話してくれ」
そうしたら、すぐに迎えに行く』伝えていたのですが。
安田は他の日本人と相乗りしてタクシーで乗り付けました。
フロントに居たので、はっきり覚えています。
安田と一緒の陽子はまるで死んだようでした。
陽子も泊まるのかと、安田に尋ねたのですが
彼女は疲れているから、少し休むだけ、と言ったのを、
心の中で笑ってやりました。
この女は明日からこのホテルに住むようにことになった。
お前はそれを知らないのかと。
ミスター、陽子をここ住まわせて、
差額まで持っていただいて、ホテルとしては有難いのですが」
ジョニーは怖いボスの機嫌をとりにかかった。
「お前の考えることではない」
ジェームズ・リーはそう言って、電話を切り、
フィリピーナの女を呼びつけた。