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外に出ると雨が降っていた。
ここの人たちは少々の雨には平気なようで、二人で小走りに厩に向かった。
生き物相手の仕事に休みはなく、日曜日の早朝も、いつものよに作業は始まる。
ここでは、もう普段のポールに戻っていた。
傍で見て、昨日の落馬の後遺症、明け方のスミスさんの幽霊の影響もなかった。
弟子の僕は、少年の指示通り的確に動くことを要求される。
馬に飼葉を与え、彼らの表情と体の張り、餌の食いつき具合と糞の状態で、
その日の体調と健康状態をはかる。
ここで携わった事といえば、11歳の少年に指示通りに動いて、
やっと少し段取りを覚えた程度に過ぎない。
夫妻とポールの愛情に育まれた、約20頭のサラブレッドは、
この牧場から旅立ってゆく。
作業に夢中になって、雨が厩の屋根を叩きいているのに気づかなかった。
ロンドンから遠く離れた牧場地の例年の気象を知らずか、
台風を避けて隠れ家にいる錯覚に陥った。
手足を動かしながら、耳を澄ますと、
激しい雨音から霙のようなバサバサと屋根にぶつかる音に変わった。
些細なことに構わず、黙々と作業を続け体全体から白い湯気を立てる、
彼のそんな姿勢を見習い、修行僧の心境で、やっと朝の作業を終えたのです。
僕とポールは作業着の上半身を脱ぎ、頭部から順にタオルで汗を拭い、
厩を出ると、芝は薄っすらと雪化粧。
駆け足で母屋に戻り、ジョディさんの暖かいポタージュ・スープを飲んで冷え切った体を温めた。
ふと、デイブさんが呟きます。
「ポール、yamashiroさんに、何か大事なことを言われなかったかね?」
「いいえ、何も聞いてません」
「昨夜のディナーにケンと呼ばれて、てっきりあの事を話したと思っていたんだよ」
「あの事っていったいなんですか?」
「ポール!」
ジョディンさんが溜息まじりに囁きます。
「ママ、何かあったの?」
「パパ、何があったか話してくれない」
「そうだね。
もうポールは11歳になったし、もう話す時が来たと思う。
実は、ポールはわたしたち夫婦の実の子供ではないんだよ。
パパとママの間にはどうしも子供ができなかった。
我が子が欲しくて、いろんな病院の先生に相談しても、
無理だった。
パパは落馬の後遺症で子種がないと、もう諦めていた。
悩みを仕事仲間に相談すると、yamashiroさんという同業者を紹介された。
初対面の彼は、わたしにこう言った。
『我々の仲間の一人が、家庭の事情で、
産まれたばかりの男の子を手放すことになりました。
もしあなたが、その子をりっぱに育てると、
わたしに誓ってくれるのなら、養子に貰ってはどうですか?』
「その場で、わたしは即答することができなかった。
yamashiroさん一家は日本から渡って来た子孫で、
彼の仲間も、同じ日本から渡って来た人だった。
わたしは、彼に1週間の時間をもらい、
家に戻りジョディと相談して、その男の子を養子に貰うことを決めた。
わたしと妻は、クリスマスの前々日に、
yamashiroさんのお宅で白い産着に包まれた可愛い赤ん坊の顔を初めて見ることになった。
その男の子こそ、今目の前にいる、ポールなんだよ。
わたしたちは、ポールを引き取って1年後に再会を果たし、
彼はよちよち歩きのポールを見て『りっぱに子供を育てた』
と、感謝の気持ちを述べてくれた。
我が家のサンタクローであるyamashiroさんにこの牧場を紹介されて、
家族三人、ここに越して来たのだよ」
デイブさんの衝撃の告白に、誰も言葉を挟むことができず、
僕は窓の外のシンシンと降り続く雪を見ていた。
静寂な時を破ったのはポールでした。
「そう。
でも、僕はパパとママの子だよ。
それに変わりはない。
昨日の夜、山城さんから、百年前に日本から渡ってきた曾お爺さんのことを聞いた。
そして、日本から持ってきた紋章をとっても大事にしていると、僕たちに話してくれた。
それから、日本のエンペラーの紋章の話になった。
パパ知ってる?
エンペラーの紋章は菊なんだよ。
僕はケンに、パスポートを見せてもらった。
赤い日本のパスポートに金色の菊のはなびらの紋章が綺麗に浮かび上がっている。
僕には、ケンと同じ日本人の血が流れているんでしょう。
だから、一目見たときから、ケンに惹かれたんだ。
そして、山城さんやベッティとも同じ血で繋がっている。
でも、僕はデイブとジョディの子供なんだ」
彼はそう言って、大粒の涙をこぼしながら、テーブルから走り去ったのです。
誰も彼の後を追いませんでした。
ジョンだけが、動物特有の気配を感じたようで、縫いぐるみのような小さな体ですっ飛んで行きました。
僕はダイニングキッチンの窓に映る、
彼の後姿と菊のはなびらを想わせる綺麗な舞い落ちる雪と出来たばかりのポールの足跡をじっと見ていたのです。
日曜日の一日、僕は静かに母屋で過ごしました。
もちろん、夕刻前の厩の作業に休みはありませんから、
デイブさんに付いて、黙々と作業を続けた。
彼はその間、一言も発しませんでした。
体で自己を表現する、
本当に足に障害を持っている人なのかと疑わせる、力強さでした。
予定より早く、馬たちの世話を終えると、二人で母屋に戻り、
ゆっくりとジョディさんの淹れたコーヒーを味わっていた時です。
「コツコツ」と鳴るノッカー音に、
気づいた僕が玄関ドアを開けると、頭から靴先まで雪に塗れた少年がポツンと立っていました。
それは、ようやく雪が降り止んだ真冬の暮れ前でした。
「お帰り。
寒かっただろう?」
「うん」
「中へお入りよ。君の家だろう」
ポールは体を震わせ、玄関先で雪を払うと、真っ赤に頬を紅潮
させて、僕に抱きついた。
「お帰りなさい」
言葉にならない、呻きをあげ、彼は僕の胸の中に顔を埋めたのです。