ブログNO.103 国宝「臼杵大仏」群、製作は6世紀初めから  角田さん、古文書や研究者らの | うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

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ブログNO.103

国宝「臼杵大仏」群、製作は6世紀初めから

 角田さん、古文書や研究者らの証言を発見、と


教科書で市民は、「日本の仏教文化は538年、或は552年に欽明天皇が仏教に帰依し、国家として敬うことにしたことから始まる」、と教えられてきた。我々は試験に備えて「仏教国へゴミヤさん」とか「仏教、ゴゴニ渡り来る」など語呂合わせを使って、一生懸命その年代を覚えたものだ。

この認識は国史学者らが「日本の正史」と位置付けている『日本書紀』などがそう書いていることによる。仏教を国教として扱おうとした崇仏派の蘇我氏と、神道派の物部氏が国の主導権をかけて争い、結局、蘇我氏が勝利して、以後蘇我氏が専横を振るったという筋書きだ。

だが、これまで見てきたように『日本書紀』という書物はその筋書きほとんどがウソだらけだった。中国の史書から切り取ってきた言葉や文章をつなぎ合わせて〝事実〟を曲げ、〝物語〟をでっちあげて「古来、日本の政権は大和政権しかなかった」(大和政権一元論)という虚構を作り上げた。

我が国の仏教文化の巨大なモニュメントの一つとして知られるのが大分県臼杵市に残されている「臼杵大仏」群だ。総数60数体、大小の仏像が崖に刻まれ、今、そのほとんどが「摩崖仏」として国宝に指定されている。

問題はこの「国宝」がいつ造られたのか、だ。国史学者らの認識を受けて美術史の専門家や文化庁はこれらの石仏群は「平安時代後期」に造られはじめたと発表してきた。

小生は種々のデータから見てこの認識は「絶対におかしい」と思ってきた。当ブログNO.100でも触れた。だが、残念ながらその〝証拠〟を掴みえず、仏像の形態についての詳細な知識もないため、いわば隔靴掻痒(かっかそうよう)状態でイライラしていた。

この11日、「事実としての古代史」発掘をめざす東京の「多元の会」会員の角田(つのだ)彰男氏が造像開始の時期についてその証拠を発見した、として発表した。小生は角田氏にお願いし、そのレジメを当ブログでも公開していただくことにした。

以下そのレジメの全文だ。要はこのブログでも再三扱っている「九州年号」のひとつで「正和4年(529年)」という年号が仏龕(がん)などに刻まれていたことを発見した。この仏像群が刻まれ始めた時期は6世紀始めであることがわかったのだ。

平安時代とか鎌倉時代から掘り始められた、という美術史家の認識はまったくの誤りであって、九州ではその認識の300ないし400年前から掘り始められたらしいのだ。九州では仏教文化ははるか以前から広まっていたことが証拠だてられた。すごい発見だ。次号では発表をさらに掘り下げてみる。


角田氏の記事はこちらからご覧ください。