ブログNO.89  紀氏 その9 関西における紀氏の最大拠点 紀州 熊本県氷川流域産の石棺も | うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

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ブログNO.89  紀氏 その9

関西における紀氏の最大拠点 紀州

熊本県氷川流域産の石棺も出土


1994年、小生は三一書房から『謎の巨大氏族・紀氏』を出版した。執筆当時小生は、和歌山県橋本市に住み、取材活動をしていた。和歌山県はもともと「紀州」とか「紀伊」と呼ばれていた地域だ。そこにある質の高い、また謎だらけの遺跡、遺物にびっくりしたものだ。

「紀伊」という呼び方は「大和政権」が実質的に列島の支配を確立した8世紀初め、藤原不比等が列島の「和風化」、あるいは九州政権隠しを目指して当時一字名称の地域がほとんどだった地名を「二字」にするよう命令してからの呼び名である≪和銅6(713)年≫。

元来は「紀の州(しま)」とよばれた地域だったのだ。言うまでもないことだが、古墳時代、この地域を支配していたのは「紀氏」である。異論はない。

拙著を出版したころの古代史学界はもちろん、『日本書紀』こそが「正史」であり、すべての遺跡、遺物も『日本書紀』の記述に沿って考えられ、解釈、公表されていた。

古田武彦氏による「九州政権実在説」はすでに多くの古代史フアンを捕らえていたが、学界の多くはこれを無視することで問題を避けていた。この傾向は学者らによる「いかがわしい視点をもつ学徒の再生産」がされ続けた結果、今でも多くの部分で続いている。

古田氏の著作にも触れていた小生は、俗世で一つの政権が永遠に続くなどということは考えられない。日本でも海外でも一つの政権が続くのはせいぜい300年が限度だ、と感じていた。

ひょっとすると紀州にいた「紀氏」は列島を支配していた政権の一つではなかったか、という疑問を持ち、遺跡や遺物を中心に、問題提起として書いてみた。

今読み返してみると、まずまずの線はいっているが、「紀氏」などについてもまだ「一知半解」状態で書いていることがわかる。列島を支配していた一氏族ではなかったか、という「勘」は的中していたことはよかった。

それはそうと、紀州の特徴的な遺跡について見てみよう。


◇岩橋千塚と秋月1号墳

まず第一は和歌山市の東側一帯に築かれている「岩橋(いわせ)千塚」だ。古墳群の総数は850基余という。円墳が9割近くを占めているが、前方後円墳(28基)あり、方墳ありでバラエティに富んでいる。狭い範囲にこれほど多くの立派な古墳が密集しているのは珍しい。「紀伊風土記の丘」という「実態を隠した!?」ともいえる名称ながらよく整備されている。

築造されたのは4世紀末から7世紀中ごろまでと考えられている。近畿地方の土器の年代は、滋賀県を除いて放射性炭素の年代測定ともほぼ合っており(注1)実年代に近いと思われる。


◇築造はもう少し早い時期?

ただ、近くに秋月1号墳という破壊され、痕跡だけが残っていた前方後円墳(全長32㍍)が発見されている。4世紀初めごろの築造ではないかとされる。もっと古い可能性もあり、事実そうなのかはわからないが、近畿の前方後円墳としては最古級のものだろう。

前方後円墳は九州倭(ヰ、貴、紀)政権の古墳の形、とりわけ紀氏の墓制であろうと考え、「紀州」が九州で勢力を蓄えた紀氏の進出先のひとつであるとすると、その進出時期は少なくとも4世紀初めごろ、ということになる。NO.86で示した年表の300年前後に当たる時期だ。

一方、秋月1号墳近くの古墳から出土したと伝えられる「三角縁神獣鏡2面の存在も微妙だ。千塚の最も古い部分の古墳から出た、と伝えられる。手に入れてすぐに葬ったかどうかはわからないが、ちょっと気になる。

この鏡は、卑弥呼が魏王からもらったものでなく、銘文に記されているように「呉の国」から景初3(239)年ごろに来た鏡づくり作り工人、陳さんや吾さん、あるいは張さんらが自らの生活の為に作り、一般に売っていたものだ。「魔除け」あるいは「子孫に幸運を呼ぶ」などという謳(うた)い文句というか「販売用の売り文句」も記され、列島では被葬者の魂を守るために、墓に入れられたと思われる。

仮に手に入れて間もなく墓に埋めたとすれば、千塚の当初の築造年代もかなり古くなろう。このことを裏付けるかもしれない、と考えられるのは、やはり「魏志倭人伝」の記載だ。

247年、あるいは248年ごろの記載に「卑弥呼が死んで男王が立ったが収まらず、乱れた」とある(年表参照)。逃亡、渡来してから苦節数百年の後、九州の西北側を征し、卑弥呼の擁立に成功した「紀氏の国」も跡継ぎ問題で戦争状態にまでになったのだ。

負けた方は九州におりにくい。そこで新天地を求めて一部の紀氏が和歌山に移り、故郷の墓制である前方後円墳を築いた、という見方も考えられる。いつ埋葬されたかは問題だが、現在の古墳の推定年代と鏡の年代とはかなり隔たりがある。しかし、手に入れて何世代かの後に埋められたと考えれば、「合う」とも言っても言い過ぎではないのかもしれない。


◇列島に多くの「紀氏」?

一方、「紀氏」と言っても日本列島にやってきた「紀氏」は何も紀元前473年、「(旧)呉の国」からやってきた人々だけではなかろう。「紀氏の国」は中国の春秋時代には、大陸に50ケ国ほどあったことが知られている。

各地に派遣されていた「周の皇子」らが(西)周の滅亡(前771年)によってそれぞれが独立して国を作ったのだ。

が、戦国時代(前5~前3世紀)には呉国と同様、次々と滅ぼされた。これらの「紀氏国」の人々の中にもおそらく大陸から逃げ出し、日本の「東海紀氏国」を頼って逃亡してきた人々がいたことも十分推察される。

なにせ当時の日本列島は、かの孔子(~前479年)が「東夷にはまだ礼節がよく行われているという。いかだでも作ってあそこに行きたい」と嘆いた(論語)ほど、欲望がうずまき、乱れ切った中国では「あこがれの土地」でもあったからだ。

こうした人々が「東海紀氏国」の後押しを受けて、九州ではなく、近畿・和歌山県周辺に新天地を求めたこともあるいは考えなければならない。

事実、そんなことがあったかどうかはまだ確認できていないが・・・。


◇石棚付きの古墳

岩橋千塚の5~6世紀の古墳で注目されるのは、「石棚を持った古墳」だ。「石棚」や「石梁(はり)」は熊本県の横穴式石室古墳の特徴的な造りとして知られる。石室のなかに大小の棚を造り、石室に荘厳さを演出し、併せて石室の強化をねらったものとみられている(写真=前山A46号墳)。

奈良県立橿原考古学研究所の河上邦彦氏らが、奈良・平群(へぐり)谷の三里(さんり)古墳を調査した時、ここに千塚のものと同じ石棚が構築
89-1 されていることを知り、こうした古墳が列島のなかでどこに何基あるかを調べた。
1970年代後半のことだ。

結果は九州熊本から福井・若狭地方までの広い範囲で実に98基を数えた。その後発見されたものも多く、和歌山県教委の調べで現在130基にまでカウントされているようだ。なかで注目される古墳を見てみよう。

奈良・平群谷は平群氏とともに紀氏がいたことで知られている。三里古墳が築造されている近くには紀氏神社もある。平群氏の関西での拠点であり、本貫地のひとつとみられるのは福岡・博多の西側一帯と考えられる。『和名類聚抄(倭名抄)』に郡名の一つとして記録されている。

『古事記』孝元紀によれば、平群氏と紀氏は同じく熊曾於族の武内宿禰(たけし・うちのすくね)から出たとされる一族だ。本来は別の氏族であろうが、婚姻とか宮廷内の勢力を反映してそのように記録されたのであろう。いずれも九州倭政権の中心部にいた氏族である。

興味深いのは三里古墳の石室には組み合わせの箱型石棺が設置されていることだ。この形式は奈良・吉野の岡峯古墳や岡山市の弥勒堂古墳と同じである。普通、5~6世紀の石棚付き古墳には家形石棺が収められるケースが多い。これらの古墳はちょっと変わっている。

この形式は千塚にもある。前山A17号とか前山B36号だ。ただ岩橋千塚のほとんどは石棺を造らず、石室内に石敷の屍床を造っているという。

石棚のある古墳のひとつとして有名なのは熊本県八代郡氷川町野津の大野窟(おおのいわや)古墳であろう。近畿に送られた九州製石棺の製造場所のひとつである氷川流域にあり、九州における紀氏勢力の南限付近(当ブログNO.85参照)に築かれている前方後円墳(122.8㍍)だ。

九州最大級の横穴式石室(長さ124㍍)が構築されていて、石棚や羨道(せんどう)などは赤や白色できらびやかに彩色されていた。巨大な石棺や2基の屍床がある。見に行ったが石材を組み合わせて構築した石室の高さには恐れ入った。6.5㍍あるという。列島最高という。

大野窟古墳は6世紀後半の築造、とされているが、これはいかがわしい九州の土器の年代観や、大和が前方後円墳の中心地だ、という誤った形態からの判断である。市民に事実を知られないよう、確実な理化学的年代測定は極力忌避されていて、もっと古く4世紀代の可能性もある。

岩橋千塚の大きな謎のひとつに、この古墳群になぜ彩色が施されていないのかがある。もし、熊本県菊池市を発祥の地とする紀氏の墳墓であれ
89-2 ば、数多くの石室が彩色で飾られていても不思議ではない。菊池市周辺には全国の
30%ほどの装飾古墳が築造されており、いわば装飾古墳のメッカ、ともいえる地域だ。時と場所が違えば古墳を造る技術者、意識も違う、ということだろうか。

紀州周辺には紀氏だけでなく熊曾於(熊襲)族や大伴氏も進出していたらしい。田辺市に「内の浦」があり、千塚群内の井辺(いんべ)八幡山古墳から出土した力士埴輪(写真)はそれを物語る。相撲は熊曾於族の特徴的な祭礼の一つであったからだ(注2)。薩摩半島南端の成川遺跡でよく見られる縄の端を交差させた文様の土器も出土している。

これまで記してきたように紀氏と熊曾於族らは常に離合、集散を繰り返し、一体になったり、激しく対立したりしていたことが伺われる。


隠したい?九州製石棺の存在

もうひとつ、群内にある前方後円墳・大谷古墳に先ほど記した氷川流域の石材である阿蘇溶結凝灰岩で造られた石棺が収められている。(写真)岩橋古墳群の成り立ちを知るうえできわめて重要な「物証」だ。


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石棺(高さ12㍍、長さ29㍍)は氷川町宮原で見つかっている「田中石棺」とまったく同じ形である。同じ氷川流域で造られた石棺として知られるのは紀氏が九州の宇佐八幡神社を勧請してつくったという京都府八幡市の石清水(いわしみず)八幡宮境内にある八幡茶臼山古墳の石棺とか、兵庫県揖保郡御津町(現たつの市)では舟形石棺が見つかっている。

熊本大学の渡辺一徳氏や宇土市教委の高木恭二氏の調査で判明している。

問題は和歌山県教委が一般向けに出しているパンフや案内表示板の解説などだ。見学に来訪する市民に対して、大谷古墳の石棺が九州・熊本産であることは記されていない。

ただ古墳近くの案内看板には「九州の九重山系の凝灰岩で造られている」とだけ記されている。発掘当初の調査が行き届かない時の見解だ。

パンフレットは「紀氏は単なる一地方氏族の奥津城である」という卑屈な解説で通している。「何もわかってない人達」と言われても致し方ないが、「紀氏」や「紀州」を解明する重要なデータを知られないようにしている様子も垣間見られる。


1 『考古学と実年代』(埋蔵文化財研究会編)

 相撲は九州、とりわけ鹿児島、宮崎(旧日向地域)や熊本の十五夜綱引きで行われていた重要な祭礼のひとつであった。相撲場の「桟敷席」も熊本県芦北地域などにある「佐敷」から生まれた名称である。相撲を取り仕切っていたのは古来熊本の吉田家であった。つい最近まで横綱になると必ず吉田家にあいさつに出向く習慣になっていた、など。拙著『熊襲は列島を席巻していた』(ミネルヴァ書房)参照


次回は大谷古墳から出土した有名な「馬冑」などについて詳しく見てみよう。

20186月)

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