紫電改墜落地に向った予科練兵の砲台跡 | 次世代に遺したい自然や史跡

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毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

<海岸のL字隧道陣地>

太平洋戦争末期の世界最強の戦闘機、紫電改やその展示館、基地の一つの松山海軍航空基地跡等は拙著「四国の戦争遺跡ハイキング」で取り上げているが、愛南町紫電改展示館に展示されている機が昭和20年7月24日、久良湾に墜落時、それを目撃して救出に向かった部隊があった。(下の写真は墜落地)

幕末の久良砲台跡南西の海岸に築いていた地下陣地、8センチ高角砲台(機能的には水平砲台)の守備に就いていた宇和島海軍航空隊(過去ブログで弾薬壕等を紹介)の予科練兵たちである。

予科練兵たちは急いでボートで救出に向かったものの、墜落地周辺(上の写真)をいくら探しても搭乗員を発見できなかった。恐らく、搭乗員は墜落後、すぐ脱出したものの、海中深く沈み、溺死し、行方不明になったものと思われる。

その機は九州の大村基地から飛び立ち、豊後水道上で米軍の艦載機と交戦し、未帰還となった6機の内の1機だが、今以って搭乗員の氏名は分かっていない。海軍第343航空隊(剣部隊)の武藤金義少尉、今井進一飛曹(一等飛行兵曹)、溝口憲心一飛曹、鴛渕孝大尉、米田伸也上飛曹(上等飛行兵曹)、初島二郎上飛曹のいずれかである。

墜落地は久良漁協の南東で、19.7m三角点を擁す岬南西の養殖筏の側、水深41mの海底。サルベージ船による機の引き揚げは昭和53年7月、元343空隊員や遺族らが見守る中、行われた。操縦席の上部にダイバーが供えた花束が、そのままの状態だったことから、遺族らはすすり泣いた。

この地は紫電改展示館側からも望見することができる。因みに展示館では343空の活躍を描いた須本壮一著の漫画「紫電改343・完結編」や、そのクリアファイルが販売されている。

連載誌が廃刊後、クラウドファンディングを利用して、完結編が刊行された。リターンの絵に直筆サインが入った色紙も展示されている。「戦後編」刊行のためのクラウドファンディングも行われている。

砲台陣地の探訪起点は幕末の久良砲台跡入口の広場。ここに駐車するが、この県道はガードレールも設置できないほど狭いため、対向車が来ると厄介。ハンドル操作を誤ると崖から転落してしまう。

陣地はL字隧道となっていることから、周回できるが、そうすると四つん這いにならないと通れない箇所を通らなければならない。故にズボンを汚したくない方は復路を往復すると良い。

 

前述広場から少し引き返すと、急勾配の尾根が下っているカーブ部(上の図と下の写真)に到るが、その尾根が復路のルート。尾根をしばらく下ると尾根の真ん中に一本の大木があり、そこから踏み跡が斜面を南東に下り、石垣上に出る。すぐ下は砂浜。磯を北西に進むとすぐ砲台口(隧道)が現れる。干潮寄りの時間帯が良い。

周回する場合は前述のカーブ部をやり過ごし、南方の谷状地形に到る(下の写真)。その地形を適当に下ると浜に出る。そして磯を北東に進むとすぐ素掘り隧道が現れる。干潮時の潮位が80cm以下の日が適しているが、干潮の前後1時間位でも歩くことはできる。但し、滑り易いので、スパイク付の磯シューズ等を履いた方が良い。周回時はヘッドランプも持参のこと。

隧道に入ると、奥が極端に狭くなっていることが分かる。これは砲台口(隧道出口)から米軍が上陸して来た場合を想定しており、身体の大きい米兵はここを通り抜けるには時間を要す。そこを、隧道入口と出口側から挟み撃ちにすることもできる。

極小部の奥は突き当りのように見えるが、そこからほぼ直角に北向きに隧道は曲がり、出口(砲台口)に到る。出口手前の西側には少し広い空間があるが、ここは砲弾置場だろう。その横から出口までの間に8センチ高角砲が設置されていた。

こちら側の浜は入口側のものよりきれいで、特に海が澄み渡っている。プライベート・ビーチ感さえある。予科練兵も泳いでいたかも知れない。

陸側は狭く短い谷状地形で、往路同様、こちらにも石垣がある。その奥から隧道のある尾根に向けて踏み跡が斜めに続いている。釣り人が利用しているのだろう。

尾根に乗った地点には前述の大木があるので、そこから尾根を上ると県道に出る。距離的には往路も復路も短いので、労なく探訪できる。

343空関連地としては、松山市のすき焼き店「喜楽」跡(上の写真と下の図・スカイ大街道ビル)もある。「紫電改343」の主人公、343空所属の301飛行隊隊長、菅野直大尉他の隊員たちがよく通っていた店で、大尉より年下の若女将、今井琴子氏が切り盛りしていた。

 

すき焼き店と言っても戦争末期は食糧も限られており、当然、贅沢なすき焼き等は提供できなかったが、隊員たちは弁当持参で通っていた。そんな隊員たちに、今井氏は自分の結婚時の白無垢の布を紫電改に因んで紫に染め、隊員分のマフラーを作り、各隊員が好きな言葉を済美高等女学校の生徒たちに頼んで刺繍して貰い、隊に渡した。

隊員はこの紫のマフラーを巻き、戦闘に飛び立っていった。この話は地元愛媛でラジオ・ドラマとしても放送された。

笠井隊員のマフラーが紫電改展示館に寄贈・展示されている。

そのマフラーを模した土産のマフラータオルを紫電改展示館で買いたい、という方は下のバナーを是非。