港山城跡と小林一茶史跡~港山・梅津寺史跡回遊:前編~ | 次世代に遺したい自然や史跡

港山城跡と小林一茶史跡~港山・梅津寺史跡回遊:前編~

<展望の城跡と二ヶ所の洗心庵跡>

今回、ブログタイトル変更後、初めての記事になることもあり、タイトルに象徴される展望地や史跡巡りをしながら回遊ハイキングする内容のものを投稿したい。

 

藩政時代から参勤交代時の出航の要衝として栄えてきた松山市三津地区。ここには中世、河野水軍を擁し、河野宗家の湯築城城主、河野教通と対立していた河野通春の居城、港山城があった。

2016年、その城跡への登山道が約半世紀ぶりに再整備され、展望が蘇った。また、三津は小林一茶滞在の記録もある。更に周辺には山上廃墟も複数あり、中世から現代までの歴史を肌で感じることができる。

 

探訪基点は河野通春が崇敬し、死後、奉られることにもなった湊三嶋大明神社。最寄り駅は伊予鉄道高浜横河原線・港山駅。当方は車を、地元住民に倣い、神社東方の堤防沿いに駐車したが、後で駐車禁止看板があることに気づいたので、探訪時は自己責任で。海側に梯子が降りている所には駐車しないように。

神社の拝殿付近からは三津港を見渡せる。ここから港山城跡のある西港山(50m)の登山口に向かう途中に、映画「がんばっていきまっしょい」で有名になった、海の市道「三津の渡し」の渡船場がある。この渡しの起源は港山城への物資輸送に始まるので、築城された建武年間(1334~36)まで遡る。

 

登山口にはきれいに化粧された「子育て地蔵」が座している。道は登り易い。井戸が隅にある最初の郭は休憩所となっており、ベンチが設置されている。

尾根には郭跡が連続し、道が雷状になると、一際広い山頂の詰ノ段が現れる。展望図も設置されているほど展望が良く、目の前には興居島の南半分を覆う端正な小富士山が伸びやかな稜線を見せている。北方に目を転じると小説「坊ちゃん」に登場した、ターナー島こと四十島も見えている。

下山後、渡船場北の三差路まで引き返すと、「洗心庵跡」の標柱が建っていることに気づいた。小林一茶は寛政7年と翌年、2度、伊予を訪れているが、7年の1月15日、松山に来遊し、2月5日、三津の地を踏んだ。

その日は俳人、松田方十亭宅に滞在し、2月9日、尼寺の洗心庵で多くの俳人に囲まれ、別れの句会を開いた。一昔前まで、この洗心庵跡は後述する不動院の地と見做されていたが、現在ではこの港山町5-3の地が跡地として知られるようになり、昭文社発行の道路地図にも記載されている。

現在この地には「茶陶房たなか」が営業しており、月一回、茶会(参加費400円)を催し、月3回、陶芸教室を行っている。

不動院も洗心庵跡たる所以があるので、茶陶房たなかの斜め向かいの三差路を東に入って向かう。

 

軽四がぎりぎり通れるような狭い道を300m弱行くと、左手奥に不動院が現れる。現在の不動院は祠を一回り大きくしたような小堂に過ぎないが、昔は尼僧が在住する規模だった。

 

その当時の寺の梵鏡に「予州松山和気郡洗心庵什物」と刻まれていたのである。これが洗心庵跡と言われていた所以である。それ故、’90年代は「洗心庵」と記された扁額が掲げられていた。

狭い境内には数本(今は少なくなっていたか)の松があり、根元に句碑が建っている。前者は「不動の松」と言い、後者は亀水塚と呼ぶ。前者は正確には「二代目不動の松」で、初代は幹周3~4mで樹齢数百年、太い枝はたこ足のように四方に伸びていた。

後者は寛政5年10月、松尾芭蕉百回忌に際し、松田方十らが芭蕉筆蹟の懐紙を地中に埋め、芭蕉の句を刻んだ句碑を建立したもの。このような芭蕉の句碑の塚は愛媛県下に数ヶ所以上ある。

 

俳句は観月時に詠むことも多々あったが、西港山の東の東港山(42m)は観月山とも呼ばれ、実際、俳人が集うこともあった。この山を戦後、「俳句の山」にした俳人は東麓に在住していたが、その人物が建てた風変わりな施設等は廃墟と化しつつある。次回、それらを始め、山上廃墟等を巡る。

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