本物ノ安徳天皇陵ハ高板山中腹ニ在リ・其ノ二 | 自然、戦跡、ときどき龍馬

本物ノ安徳天皇陵ハ高板山中腹ニ在リ・其ノ二

<阿佐家・平家の赤旗の真実>

本物の安徳帝一行は祖谷に入る前、西日本第二の高峰、剣山の岩屋に籠り、文治元年年末まで居たが、寒さと飢餓のため下山する。剣山には以前も触れたように帝の刀掛の松や宝剣を埋めた宝蔵石、髪を禊いだ御神水(おしきみず)、平家の馬場等、各種伝承地が残っている。

 

下山して古見に到った頃には、一行は餓死寸前だったが、帝の愛馬・銀駒が倒れたので皮を剥いで食した。その皮は「馬皮神社」として祭った。帝は轡と手綱を銀駒の形見として、潜幸時も放さなかったが、その二点は現存している。

一ヶ所に長居は禁物なため、祖谷へと入る。東祖谷の栗枝渡では、侍従の一人が亡くなったため、火葬したというが、恐らくこれは、八幡神社背後の「安徳帝御火葬場跡」のことであろう。

 

源氏の追手から逃れるため、潜幸中に亡くなった従者らを安徳帝に仕立てたのではないかと思われる。因みに納骨所は西谷八幡の地だという。

文治2年3月、一行は栗枝渡を後にし、遂に土佐に入国する。三嶺の登山口がある西熊から笹に移動し、笹川の岩屋に居住したが、手狭なため、随行していた武士らは山を登り、笹川西方に君佐古城を築いて帝を迎えた。

 

しかしここでも長期過ごすことはできず、遂に高板山中腹の赤牛(あかぎゅう)へと至る。ここには平地もあり、沢の水の豊富だったことから、仮御所を建設し、侍従や家臣団も周辺に住居を建て、田畑を耕し、安楽の地となった。

が、そんな生活は突然一変する。その年の夏、帝は病にかかり、高熱にうなされることになる。そして8月15日、看病の甲斐もなく、崩御された。数えで10歳(満8歳)の短い生涯であった。

 

帝は乳母役の女官らが離れた間に崩御され、女官らも当初、帝が眠っているものと思っていた。それ故、責任を痛感し、女官2名、雑士女1名、侍従5名も殉死した。

その後、帝に随行してきた武者たちは帝の形見分けの品を受け取り、土佐と阿波へ四散して行った。門脇中納言(下の画像)は馬路村魚梁瀬へ、小松一族は香美市物部町別役、久保一族は三好市東祖谷久保へと落ちて行った(他の有力従者は割愛する)。

 

残りの遺品は藤原知康が保管し、一族と共に大豊町豊永西峰に落ちて行った。そこで5年暮らした後、再び香美市物部町に戻り、楮佐古に移った。

しかしここでも源氏の追手を警戒して5年後、物部町神池の当時下池村と呼ばれていた地に移り、「下池為親(ためちか)」や「下池知康」と名乗った。後裔の為近氏の苗字は前者の下の名に由来している。

 

為親がその地で没すると、京都に在住していた子息の重高(壱岐式部中納言)が跡を継ぐことになり、下池村に来て、安徳帝陵守護を受け継いだ。

重高は梶原城を築き、父の遺志でもあった帝の御陵の代りとなる御陵八幡宮を城内に建立し、五色錦の赤旗と帝の遺品も城内に運び入れた。この時姓を「山内」に改名している。

 

しかし重高の子、若しくは孫が城主の時代、鎌倉幕府方に城を攻撃され落城。一族は皆殺しにされる。そこで重高の孫の一人、国義が山内家を継ぎ、城の名も山内城、後に安丸城と改称した。

 

時代が下り、安丸孫四郎が城主の時代、大飢饉が連続し、安丸一族も疲弊していた。そこで孫四郎は家宝の一つ、五色錦の赤旗を安徳帝従者武将の一人で、阿波に移り住んだ平国盛子孫の阿佐家へ持参し、食糧と交換して貰ったという。この逸話は阿佐家にも口伝されている。

 

阿佐家には大小二流の平家の軍旗が現存しており、日本最古の軍旗とされているが、孫四郎が持ち込んだのは大きい方、縦3メートル、横1.1メートルのもの。

但し、源平時代のままの状態ではない。天正13年、蜂須賀家政が国主として入国すると、旗印として反乱の恐れあり、ということで二流共、没収されてしまった。しかし家政がその価値を認め、表装して「大切にせよ。」と返却してきたという。

余談だが、以前紹介したように、阿佐家の祖谷川を挟んだ北側の旧喜多家(宝暦13年建築)横には、国盛が宮島の厳島神社から拝領した御鉾を埋めた後、植樹した鉾杉が威容を誇っている。→阿波一の巨杉から犬山へ

 

次回、崩落した林道を迂回して安徳帝陵へと登るコースをネット初公開する(飽くまで予定)。

 

参考文献「安徳じゃが浮かびたい」(細川幹夫氏著)

「祖谷の語りべ」(森本徳氏編著)

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