ネット初公開!吉田東洋の梶ヶ浦謫居跡 | 自然、戦跡、ときどき龍馬

ネット初公開!吉田東洋の梶ヶ浦謫居跡

《2行の文章を頼りに跡地を同定》

※2月3日から、当方の全面協力によるコーナー展「龍馬の讃岐から阿波にかけての軌跡」が龍馬の生まれたまち記念館で開催されるにつき、幕末関連の記事を投稿する。

安政元年(1854)8月、土佐藩参政だった吉田東洋は、江戸上屋敷の土佐藩邸での宴席で、藩主・山内氏の親戚で旗本の松下喜兵衛に酔って頭を叩かれたことに激怒し、松下を殴打して縁側から突き落した責任を取らされ、蟄居させられたことは土佐の幕末ファンなら全員知っていることと思う。しかし高知市長浜の鶴田(下の写真は東洋の鶴田塾跡)に転居する前の梶ヶ浦の謫居(たっきょ)跡を知っている者は極めて少なく、ネットでも一件もない。

東洋は最初、高知市朝倉にて謹慎していたのだが、後に梶ヶ浦に移る。転居の理由は分からないが、東洋を慕ってやってくる上士や下士があまりにも多いため、藩の上層部が高知城下から離れた地で且つ、当時、海岸沿いに道がなく、山が海に迫った不便な梶ヶ浦に移したのかも知れない。現在、浦戸湾を渡る県営渡船の発着場がある地である。

 

東洋は梶ヶ浦で、教えを乞う藩士や郷士らに講義しつつ、謹慎明けを待つはずだったが、安政元年11月の安政の大地震による津波で住居は倒壊・流失した。東洋は裏山に逃れて助かったのだが、その裏山は現在でも大地震時の津波避難所の一つに指定されている。

その東洋の梶ヶ浦の謫居跡を昭和末、龍馬研究家の山田一郎氏が地元の郷土史家らと共に探し当てている。その時の様子を綴った文章は次のようなもの。

 

「私たちは川沿いの県道から民家の小路を抜け、照葉樹林がよく繁茂している山懐の空き地へ入って行った」

当方はこの文章だけでその空き地、つまり東洋の謫居跡を机上で同定できた(上と下の写真)。

前述の通り、梶ヶ浦は山が海岸まで迫っているため、民家は谷状地形に集中している。つまり、梶ヶ浦にある谷状地形で、民家を数軒以上縫って山際の空き地まで延びる小径を探せばいい訳だが、そんな住宅地は一ヶ所しかない。それは梶ヶ浦渡船場のすぐ西の住宅地である。

 

ここは裏山の尾根が痩せ尾根になっているせいで、谷状部が広く、ど真ん中に一本の小径が一直線に続いている。その小径の突き当りにある空き地、ここが東洋の謫居跡なのである(上の地図)。

ヤブ化した畑跡のような景観で、広さは周辺の民家からすると東西に二軒分位ある。裏山へ登る道は東の山際にあるが、この地は海に極めて近いため、安政の大地震の津波時、東洋は道なき裏の急斜面を這い上がって行ったのかも知れない。

 

幕末時、海岸沿いに道がなかったため、その東の山際を走る道が唯一の道で、すぐ上がった所には荒神社の祠が祀られている。東洋も早く謹慎が解けるよう、祈願したことだろう。

荒神の上方の峠を北側に下ると御畳瀬の集落に出る。東洋も幾度となく越えたことだろう。

峠を西から南西に登った所にある津波避難所は、残念ながら展望はない。

 

因みに渡船場の向かいにある古い屋敷は、藩政期、豪商として知られた川崎家一族の屋敷(上の写真)。恐らく、海岸沿いに道ができた近代にこの地を購入したのだろう。

また、渡船場の北方、「御畳瀬排水機場」裏の山の斜面にはかつて、海軍が掘った横穴壕が二基あった(下の写真は跡地)。

尚、今回梶ヶ浦は、坂本龍馬が暗殺される二ヶ月前に帰国した際、龍馬に二度会ったある人物の兄弟の関連地を巡るついでに立ち寄ったもの。

その関連地も紹介して欲しい、という方は次のバナーを是非クリック。


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