坂本龍馬は脱藩初日の早朝、北奉公人町にいた | 自然、戦跡、ときどき龍馬

坂本龍馬は脱藩初日の早朝、北奉公人町にいた

元リーダーズダイジェスト編集長夫人の先祖が

これまで何度か具体的根拠を挙げ、坂本龍馬脱藩初日(文久2324)の夕方に自宅を発ったという説や、一旦、高知市神田の和霊神社に参ってから西へと進んだとする説を否定してきた。

 

一番の否定の根拠は何度も説明してきたように、そんなことをしていたら、25日の夜半までに梼原町の那須信吾邸に着かないからである。

 

更に有力な否定の根拠を何年か前に知った。それは脱藩初日の早朝、日根野道場で龍馬と共に剣術の腕を磨いていた藤戸龍太の親族やその近所の人々に、龍馬は見送られた、という伝承。龍太らは龍馬なら土佐、いや、日本を変えてくれると思っていたのかも知れない。

 

この伝承は代々藤戸家に伝えられてきたものだが、子孫の中には有名なマスコミ関係者もいた。それが元リーダーズダイジェスト日本版編集長・福岡誠一氏の夫人・光子氏やその父で元高知新聞編集局長の藤戸達吾氏である。

 

幕末期、藤戸家は高知城下の北奉公人町にあり、瓦屋を営んでいた。北奉公人町は現在の高知市の電車(土佐電鉄)通りから北側の上町1丁目から3丁目までの区域にあたる。

 

藤戸家の具体的な場所を調べるにあたり、まず参照したのは、天明8(1788)に作成された「上町分町家名附牒」である。この資料には上町の五つの分町が記載されてあり、ここに北奉公人町も属している。その名の通り、元々は下級武士に奉公する人々が多く居住していた町だった。

尚、後に上町には日根野道場があった「築屋敷」地区も加わる。

 

名附牒は住宅地図の人名版とでもいうべきもので、通りや筋沿いに当該家の当主名が家の並び順に記載されたもの。地図ではないものの、人名と人名の間に空間があれば、そこが道だということが分かる。

 

しかしこれに藤戸家は記載されていなかった。つまり、藤戸家は藩政時代中期にはまだこの地にはなかったことになる。

そこで今度は大正15年に東京商工リサーチの前身、商工社調査部が発行した「高知市街図」を調べた。

 

これは国内の主要市街地の商店や会社を網羅した「商工地図」の一つで、見た目は「業者の住宅地図」という趣。しかしこれにも藤戸という名の付く会社や瓦屋は記載されていなかった。つまり、藤戸家は藩政時代後期に北奉公人町に移転してきて、明治から大正時代に転居したことになる。

 

転居先の手掛かりになったのは、藤戸達吾氏の経歴である。彼は明治5年の安芸市の出身だが、「高知県人名事典」には「のち安芸の瓦製造・藤戸家の養子となって帰郷」とある。藤戸家は明治ないし大正時代、安芸市に移っていたのである。

 

藤戸家の子孫に窺えば、高知市の住居跡もある程度分かるかも知れないが、現在、安芸市で瓦屋を営む藤戸家はない。佐川町の山口彦作邸跡を調べた時のように、地元の市議会議員に探して貰う手もあるが、コネがない。

 

彦作邸跡時の議員の場合は、彦作の伝承を知ってから何年も経って偶然、間接的コネができたが、今回も何年か経たないと住居跡発見には至らないかも知れない。

                 <参考文献>海援隊遺文(山田一郎氏著)

PS:昨日から龍馬の生まれたまち記念館で当方の企画によるミニコーナー展「四国に残る龍馬の伝承と無名史跡」が開催されている。読売新聞高知版で一両日中に報道される模様。

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