2012-03-10 19:27:33

再否定!坂本龍馬脱藩の道須崎廻り説

テーマ:四国の真・坂本龍馬脱藩の道関連

一昨日、「坂本竜馬脱藩街道須崎-伊予長浜」による検索訪問がありました。これまでにもたまに、脱藩の道須崎廻り説に関する語句検索訪問がありましたが、一昨年、須崎ルートは山道ばかりで、距離的にも時間的にも佐川ルートよりはるかに遠回りになることを、現地写真入りで解説しています。

が、念のため、今後、須崎説のようなナンセンスな検索がないよう、再度解説します。



[須崎説の根拠]

根拠はただ一つ、桂浜の龍馬像除幕の日、朝日新聞記者が、龍馬と日根野道場で共に汗を流した藤田(濱田)栄馬の妹、安田たまきに取材した折の証言のみ。


龍馬が脱藩してから二日後、龍馬の兄、自然、戦跡、ときどき龍馬-大善寺から見下ろす須崎の街 権平が栄馬宅を来訪し、「人を雇って詮議したところ、須崎で、油紙に『刀らしいもの』を包んで背中に背負った龍馬の姿を見た者があるそうだが」と語った、というもの。




が、一昨年も記述したように、取材時、たまきは85歳。実に68年も前のことを語っているのです。そのせいか記憶の混濁もあり、この時、龍馬の脱藩時期を「吉田東洋暗殺の四、五日後」と証言しているのです。しかし実際は暗殺の二週間前。



故にたまきの証言を100%信用することはできないのです。

しかも、須崎市や手前の土佐市にも、龍馬が脱藩時に通行したという伝承は一切ありません。



[須崎ルートの種類]

須崎説ルートは、可能性の高い順に以下の三ルートがあります。

(1) 土佐西街道

高知市の思案橋番所を起点とし、伊予国境の松尾峠まで続く土佐四大街道の一つ。

高知市から須崎市までの藩政期の陸路の中では最短 ルートで、多くの武士が利用。



(2) 鰹の夜売り道~遍路道自然、戦跡、ときどき龍馬-灰方坂の六十六部供養塔
鰹の夜売り道は、藩政時代後期に利用されていた道で、高知市春野町弘岡までは土佐西街道と同じですが、弘岡からは南下して新川を通り、仁淀川を「十文字の渡し」で渡り、宇佐坂を越え、宇佐の中心部で遍路道に合流、以後、「八坂八浜」と呼ばれる数多くの峠道を越えて須崎市街地に向かうルート。


(3) 浦ノ内湾船便ルート

(2)のルート」の内、浦ノ内湾を船便で渡るルート。



上記三種のルートの内、(1)(2)は佐川説ルートよりはるかに遠回りで時間もかかります。

(3) については、時間的にみると、佐川ルートより若干早いかも知れませんが、危険度がはるかに高くなります。



武士があまり利用しないルートの船便を小自然、戦跡、ときどき龍馬-灰方坂から見下ろす浦ノ内湾 雨降る夕刻、利用していて、もし船の発着所周辺に役人か庄屋がいた場合、「そこの船、怪しいから止まれ」と言われればそれまでです。海上では逃げ場がありません。



また、この船は通常乗合(貸切もできるが)で、途中、何ヶ所かの渡し場に寄ることから、前述の危険度が更に高くなるのです。それだけ多くの者に顔を見られる危険性も高まるのです。

脱藩する者がこんな危険なルートを取ることは考えにくいでしょう。



[番所の数]自然、戦跡、ときどき龍馬-須崎浦番所跡

上記項の(1)のルートは、横町番所、市野々番所、須崎浦番所、(2)(3)は横町番所、弘岡番所、須崎浦番所等を通過しなければならず、佐川ルートより番所の数が多くなります。

先を急ぐ場合、番所が多いルートは取らないでしょう。



[新荘川の板橋数]

須崎ルートでは、須崎浦番所を過ぎると、新荘川沿いを蛇行する津野山街道(司馬遼太郎が「梼原街道」という別称を広めたため、この街道名は近年まで廃れていた)を行くこ自然、戦跡、ときどき龍馬-新荘川河口付近 とになりますが、後述の片岡孫五郎の子息は、須崎から葉山姫野々間は、川を13回も渡った(簡易板橋で)と回想録に記述しています。



新荘川は決して川幅が狭い川ではありません。しかも明治期の地形図を見ると、道はかなり大きく蛇行を繰り返していたことが分かります。つまりそれだけ、歩く距離が長くなるのです。



[梼原町関係資料の記述]

高知城下から梼原へ向かうルートを考察する場合は普通、梼原の歴史を調べますが、町史等に朽木峠を越えて行き来していたという記述はあっても、須崎廻りで行き来していたという記述はありません。



[佐川町斗賀野での伝承]

一昨年解説したように、斗賀野の深尾家老の家臣、山口彦作邸で龍馬が食事し、彦作の聟で葉山勤王党の片岡孫五郎が龍馬らを葉山へ道案内した、という伝承があります。孫五郎の妻の旧姓は「山口信子」。



[須崎説支持者は皆、現地を知らない]

当方は土佐西街道については、思案橋番所から須崎浦番所まで、1mも逃さず歩き、踏査しており、八坂八浜についても、一部の峠は登っていますが、須崎説論者の中で、須崎ルートを起点から終点まで寸分も逃さず踏査した者はいません。


須崎の街道では一番重要な施設、須崎浦番所の跡地の比定すらできない者が殆どなのです。

つまり皆、机上論者ということになります。



例えば、○○市○○町 字(あざ)○○の○番地の道の状態はどうなっており、なぜ、そこが脱藩の道と言えるのか、ということを、全コースについて語ることができないようであれば、説を提唱する資格はありません。



当方の解説のルートを「真実の脱藩道」と称しているのは、高知市の龍馬生家跡から下関市の白石正一郎邸跡までの脱藩の道約250キロの全コースを余すところなく語ることができるからなのです。当方以外には存在しません。



土佐西街道のコースガイドも記述してほしい、という方は次の二つのバナーをプリーズ・クリックon
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2012-03-10 00:02:15

神戸市の桜は1月に咲いた。高知は去年11月

テーマ:素晴らしい景勝地と史跡

≪奇跡の桜≫
神戸市中央区三宮の生田川沿いの遊歩道や自然、戦跡、ときどき龍馬-神戸・生田川遊歩道の桜 公園には桜が植栽されていますが、今年の1月4日、宿泊していた東横インから陸軍東山高射砲台に向けて、生田川遊歩道を歩いていた際、信じられない光景を見ました。


神若橋の西の国体道路を挟んで南北に一本ずつ、満開の桜樹があったのです。他の桜は枯れ木なのに、その二本だけが咲き誇っているのです。

これを見て私は心の中で呟きました。「何、フライングしとんねん。」


これで驚いてはいけません。去年11月下旬、高知・愛媛県境の自然、戦跡、ときどき龍馬-紅葉と桜 新寒風山トンネルの、高知県吾川郡いの町側の国道194号沿いと、丸石橋西袂にも桜が咲いていたのです。しかも後者の方は紅葉と並んで立っていたのです。


高知の方はソメイヨシノではなく、つぼみも花弁も小さなタイプ。

このタイプは四国以外にもあります。


余談ですが、丸石橋の近くには平家の落人が開いたとされる地区があり、史跡もいくつか探訪したので、いずれ各種伝説シリーズで紹介しましょう。


因みに現在高知県内では、須崎市桑田山(そうだやま)の雪割桜(名所)と、大豊町定福寺下方の道路沿いの桜(品種は度忘れしました)が開花しています。


今週末、桑田山で花見をし、ついでにその上方にある、高知県の絶景展望台第三位の蟠蛇森展望台に登ろうと思う方は、次の二つのバナーをプリーズ・クリックon

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