『期待(あることが実現するだろうと望みをかけて待ち受けること。当てにして心待ちにすること。)』〔デジタル大辞泉〕



 



現在、アベノミクス政策で(見かけ上の)メインストリームとなっている金融政策には、3つの狙いがある。



一つ目は、金融市場への大量の資金供給による低金利誘導だが、長引くデフレにより金利への感応度が極度に鈍っている現況下においては止血剤程度の役割しか果たせていない。



二つ目は、金融市場に溢れたマネーがもたらす株や不動産投資などの活発化を通じた資産効果と為替の円安誘導による外需の取り込みである。



そして三つめは、インフレ目標にコミットメントし、それを達成するまで量的緩和政策を継続させることによるインフレ期待の醸成だ。日銀がインフレ目標を明確化することで、マーケットや民間経済のインフレ予想が刺激され、将来的な物価上昇に追い立てられるように民需や投資が活発化し、それが経済成長をもたらすというものだ。



この金融緩和政策によるインフレ期待の醸成こそが、金融政策論者(いわゆるリフレ派)の主張の胆であり、中央銀行が大規模かつ長期的な金融緩和にコミットメントすれば、インフレにならないはずがない(インフレにならないのなら、事実上の無税国家が誕生するが、そんなことはあり得ない)というバーナンキの背理法を盾に、その効果を固く信じて疑おうとしない。



 



実際、彼らは、いつも自信満々に自説を主張する。



「デフレは需要不足ではなく貨幣現象だ。貨幣減少が要因である以上、マネタリーベースを増やせば、市場は貨幣の価値が薄まると判断し、将来インフレになると予想するはずだ」というのが、リフレ派の代表的な主張だが、そういった“マーケットの妄想”が実体経済を突き動かすに至る経路が全く不明なのが最大の難点でもある。



 



リフレ派の経済政策や主張の軸は、あくまで民間やマーケットの自律的行動が起点であり、その発火点となるのが、民間やマーケットが抱く「期待」や「予想」である。



ブタ積みされた巨額のベースマネーに突き動かされた市場関係者や金融機関が投融資を活発化させ、それに刺激を受けた民間経済がインフレを予想して先行投資や駆け込み消費に走り、それが永続的に循環して経済発展を実現させるというシナリオなのだが、あくまで民間経済の期待やインフレ予想の連続性を前提とする、いわば、ベストシナリオの上にさらにベストシナリオが重なるような偶然性頼みの政策だとも言える。



 



そもそも伝言ゲームのように、インフレ予想が実体経済に綺麗に伝播していくという考え方が極めて甘い。



仮に、最初の一歩目のインフレ予想が見事に着火して駆け込み消費や投資が起こったとする。そうした場合、今春の増税前の駆け込み需要のような消費の盛り上りが、一時的には起きるだろう。



将来的な物価上昇を確信した家計や企業は、後ろから追い立てられるように第一弾の消費や投資行動を取らざるを得なくなる。だが、実体経済に直接的な所得をもたらす財政政策の裏付けなしに、そんな義務的な消費行動を幾度か余儀なくされれば、多くの家計や企業は、やがて手元資金が底を尽き、生活防衛に走らざるを得なくなり、財布の紐を固く締め始めるだろう。その時点で、肝心の「期待やインフレ予想」というバブルは弾け飛び、デフレ不況へ再突入するハメになる。



 



そもそも、財政支出を絞ったままで、いくら金融緩和の蛇口を緩めても、そこから出てくるのは返済義務を伴うマネー(融資や貸付用の資金)ばかりで、直接的に家計や企業の所得に変わるものではない。



そうなれば、国内にある資金量にはキャップがはめられ、所得になりうる限られた資金を巡って不毛な争いが起き、富を獲得するには純輸出を増やして外需を奪うしか手が無くなる。(結局は円高を招来しその効果も相殺されるだろうが)



 



リフレ派の多くは、アベノミクスの切り込み隊長役を果たした黒田バズーカの政策効果を大きな戦果と捉え、財政政策抜きでも金融政策だけでデフレ脱却は十分に可能だと鼻息が荒く、すっかり「金融緩和万能論者」と化してしまった。



そんな彼らの目論み通りに期待やインフレ予想がフル回転し、金融機関の信用創造機能がビッグバンを起こすには、民間経済が借りたカネに利子を付けて返済した上で、さらに手元に十分な収益を残せるだけの経済的好循環が前提となる。



だが、果たして、借りたカネをグルグル回すだけで、そんなことが可能だろうか。



増税やエネルギーコスト等の上昇によるコストプッシュインフレの弊害が顕在化しつつある中で、純所得の創出機能に優れた財政政策を抜きにして、金融緩和頼みのババ抜きごっこにうつつを抜かしていると、やがてスタグフレーションを招来し、金融政策は、その主犯として厳しい非難に晒されることになるだろう。



 



リフレ派の思考は純粋かつ単純で、“お金が増えたらデフレになると予想する人は絶対にいません”などと寝ぼけたことを言う輩がいる。



彼らの言う“お金”とは、我々が欲するお金(所得になるお金)ではなく、投融資の原資としてのお金(返済義務の生じるお金)なのだが、そこのミスマッチに気づこうとしないのが、リフレ派の最大かつ初歩的な過ちでもある。



 



リフレ派の金融緩和政策を指して、「リフレ派は、カネさえ刷れば景気が良くなると言っている」と批判するのは大間違いだ。彼らが刷ろうとしているのは、家計や企業の所得になるお金ではなく、行き場もなく日銀と金融機関にブタ積みされるだけの見せ金に過ぎないからだ。



いまの日本には、使えもしないお金を転がして投資ごっこに興じている暇などないのだ。



 



現在、アベノミクス政策のハンドルは、経済財政諮問会議や産業競争力会議に巣食う気持ちの悪い連中の顔ぶれを思い浮かべるまでもなく、明らかに構造改革派(緊縮財政派を含む)が握っており、彼らに金融緩和政策というニンジンをぶら提げられたリフレ派が、その露払い役を仰せつかっている、という構図だろう。



財政政策や公共工事を時代遅れの汚らわしい政策だと蔑視する両派にとって、財政支出を伴わずに為替や株価にそれなりの影響を及ぼせる金融政策は、非常に使い勝手の良い政策なのだ。しかも、小難しい経済用語や金融用語を多用でき、「マーケットを主語とする」スマートな政策に酔いしれることもできるし、小汚い土建屋や農協、族議員の連中の相手をせずに済む。



 



増税前の駆け込み消費騒動も一段落し、間抜けなバカマスコミや構造改革派、リフレ派の連中は、増税の影響は想定の範囲内だなどと嘯いてのんきに鼻毛をほじっている。



しかし、第二の矢が実体経済にもたらした所得増加の好影響が、まだほんの一部に止まる中で、新たに首をもたげてきた増税やエネルギー価格の上昇という負のインパクトの悪影響を完全に見誤っている。



 



このまま、構造改革と金融緩和のポリシーミックスというポンコツ政策を断行し続ければ、再び内需は縮小に向かい、上向きかけた経済指標も下降線を辿ることになるだろう。



そして、自らの経済失政を認めたくない構造改革派やリフレ派の連中は、内需拡大を果たせない腹いせに、大声で外需開拓の必要性を煽り立て、「人口減少に見舞われる日本にしがみつく時代は終わった」、「成長するアジアを取り込もう」、「国境や国家の垣根などありません」、「国民はグローバル競争に勝ち抜けるスキルを身につけるべきだ」などと国民を扇動し、貿易立国論に逃げ場を求めざるを得なくなる。



それが常態化してしまえば、ますます内需は縮小を余儀なくされ、シンガポールや韓国のように、新自由主義が蔓延る醜悪な貿易国家に落ちぶれてしまうだろう。