シリーズ最終回。その時歴史が動いた。
花山寺にご到着なさって、帝が剃髪出家なさった後、粟田殿が、
「私はいったん退出して、父の右大臣に今の姿をもう一度見せ、きちんと事情を申し上げてから、きっとまた参上しましょう」
と申し上げなさったところ、帝は、
「さては私をだましたのだな」
といってお泣きになった。しみじみおいたわしく悲しいことであるなあ。
常日ごろ、
「出家したら私が弟子としてお仕えしましょう」
とよくよく約束しておいて、いざ当日にだまし申し上げなさったという恐ろしさよ。
東三条殿は、「もしや我が子が本当に出家なさりはしまいか」という危惧から、誰それといった任務に相応しく思慮分別のある立派な源氏の武士たちを護衛につけておられた。
京を出るまでの間は隠れて、鴨川の土手のあたりからは姿を現して随行し、参上した。
花山寺では、「もしや強引に誰かが出家させ申し上げたりしないか」ということで一尺ほどの刀を抜きかけて粟田殿をお守り申し上げたそうな。
(原文)
花山寺におはしまし着きて、御髪おろさせたまひて後にぞ、粟田殿は、
「まかり出でて、おとどにも変はらぬ姿いま一度見え、かくと案内申して、かならず参り侍らむ」
と申し給ひければ、
「われをば謀るなりけり」
とてこそ泣かせ給ひけれ。あはれにかなしきことなりな。
日頃、よく、「御弟子にて候はむ」と契りて、すかし申し給ひけむがおそろしさよ。
東三条殿は、「もしさることやし給ふ」とあやふさに、さるべくおとなしき人々、なにがしかがしといふいみじき源氏の武者たちをこそ、御送りに添へられたりけれ。
京のほどはかくれて、堤の辺よりぞうち出で参りける。
寺などにては、「もし、おして人などやなし奉る」とて、一尺ばかりの刀どもを抜きかけてぞまもり申しける。
【語釈】
●おとど
大臣の訓読み。ここでは、右大臣であり、粟田殿(藤原道兼)の父である藤原兼家のこと。
●東三条殿とうさんじょうどの/ひがしさんじょうどの
もともとは藤原摂関家が代々受け継いでいった邸宅の名称だが、ここではこの時のその邸宅の所有者である藤原兼家のこと。
いくら泣いてもあとの祭りよ
これで花山院のお話は終了です。
藤原兼家・道兼親子の策謀によって退位→出家させられた、と語られています。
兼家の孫にあたる一条天皇を早く即位させるためです。
しかし、出家の動機としては②に書いたように、女御の死も関係しているらしいです。
花山天皇はちょっと問題もあったようなので、在位期間2年で退位となったのはあながちただの陰謀ではないのかも、という気もします。
だからといって、だまし討ちのような形で出家させて良いというわけではありませんが。
さて、その出家の地となった花山寺=元慶寺を写真で紹介します。
元慶寺鐘楼門(前掲)
僧正遍昭(元慶寺の開基)の歌碑
牡丹
これらは2017年のゴールデンウィークに参詣した時の写真です。
ちょうど中学生くらいの女の子が御朱印をもらいに来ていたのを覚えています。
こぢんまりとしたお寺で、場所も分かりにくい所にありますが、とても雰囲気の良いお寺です。
ご住職も良い方で、近くの見所を聞いたところ、毘沙門堂を教えてくれたので行ってきました。
さて、その元慶寺の裏手に「崋山寺」という寺があります。
最初、迷ってウロウロしていた時、さきに華山寺に到着して、『大鏡』では「花山寺」と書かれていたので、混同してしまいそうでした。
しかも、こちらには花山院の小さなお墓があったのです。
やはり元慶寺と崋山寺は何か関係があるような気がします。
でも、元慶寺は天台宗、華山寺は臨済宗だそうで
元慶寺のご住職に聞いてみれば良かった…
ということで、『大鏡』より「花山院の出家」はこれで終了します。