今回も箇条書きで失礼。
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3月12日
原発爆発。
大きな風船がバンと割れたような爆発音を聞いた。
爆発音が聞こえた後、「撤退」の連絡が来た。
全員に配布されたのは、普通のマスク一枚。
撤退し避難したリョウゼンという山は、後々に放射能が降り注いだ高濃度汚染区域だったとわかった場所。
爆発音が確かに聞こえ、原発が爆発したということだけはわかったが、
その後詳しい情報はまったく入ってこなかった。
現場では、「いったい何がどうなってる???」という状況だったが、
救援活動を続行。
「その後、福島県民みんなが味わった屈辱ですが・・・
救援物資が、まっっったく届かなくなったんですね。」
原発爆発→放射能拡散→福島に行くのを避ける→物資が届かない。
炊き出しもこない。
救助部隊の横山さんたちもてのひらに転がるくらいのおにぎり一個で一日を過ごした。
10日間ほど、救援物資が届かない状態が続く。
ガソリンがないので、避難したくてもできなかった。
医者が県外に逃げてしまい、十分な診療行為がなく、病気が蔓延していた。
そんな中、3月21日カトリック教会の方々が買ってきてくれた食パンが、最初の救援物資。
他県に避難した人たちが、「被爆者」と言われるなどの差別が発生した。
救援物資も手渡しではもらえず、目の前に投げられたこともあった。
のちに相馬市に戻ってきた子供が、「避難先でいじめにあった」と話すこともあった。
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救援物資がなかなか行き届かなかったという地域は、なにも福島だけじゃない、宮城・岩手の一部の地域(少人数の地域や半壊した自宅に留まった方、離島など)でもあった、という声もあるかと思いますが、横山さんのお話をそのまま載せさせてもらっています。
そして、これが横山さんにとっての事実ではありますが、この話がすべて、というわけでもありません。
ただただ忠実にお話を記録として残したいと思います。
なかなか筆が進みませんが、ご容赦を。