ばあちゃん、思ったより元気になってきて良かったな。面会時間を過ぎても、嫌な顔一つせずに玄関から送り出してくれた看護師さんに一礼をしてから、学生服のポケットに手を突っ込んだオレはそう思った。一週間前、突然に家の中で倒れたばあちゃんは、検査をしたところ、悪いところがたくさん見つかったということで、すぐに入院となった。子どもの頃に両親をなくして、ばあちゃんと二人暮らしだったオレは、その日から病院に毎日見舞いに通っている。最初のうちは起き上がるのも辛そうにしていたばあちゃんだったが、二日前ぐらいからお菓子を食べて談笑できるぐらいには回復していた。明日は、久しぶりに学校に行ってみようかな。ばあちゃんに心配をかけまいと学生服で見舞いに行っているが、ばあちゃんの着替えの用意やら心配やらで、オレは学校を休んでいた。「小室山くん?小室山くんじゃない?」駅の改札の手前で、ICカード代わりのスマートフォンを取り出そうとしたオレの後ろから声がした。振り向くと、若い女性が立っている。「ああ、先生か。」オレは返事をした。相手は、オレの高校のクラス担任の中川先生だった。「こんな遅い時間に、どうしたの?それに、最近、学校に来ていないから心配していたのよ。」「ああ、ごめん。ばあちゃんが急に倒れたらさ。色々と忙しかったんだ。今は、ばあちゃんの見舞いの帰りだよ」「そうだったの。たしか小室山くんは、おばあさまと二人暮らしだったものね。おばあさまの具合は、いかが。」「最初は、辛そうだったけど、今日は元気そうだったよ。だから、明日は、学校に行こうかと思ってたんだ。」「そう、良かったわ。帰りは、こっち?」話しながら、オレ達はホームにまで歩いてきていた。特急の停まらない駅の21:30のホームに、人影はまばらだった。会社員風のスーツ姿の男性が、立ってぼーっと電車を待っている。ベンチに座って、忙しそうにパソコンのキーボードを叩いているパーカー姿の男もいた。「ああ、こっちだよ。先生は?」「私もこっちよ。」先生が、電車の進行方向を指差そうとした、その時だった。バチバチという異音とともに、駅中の電気が消えた。と思ったら、またすぐに点灯した。中川先生を見ると、上げかけた手を空中で止めて、今何が起きたのかという風に驚いた顔をしている。オレはおそらく同じく驚いた顔をしているであろう自分の目を、先生の目と見合わせた。周囲に目を配ると、先ほど見かけた男達二人もきょろきょろとあたりを見回したり、何事かという顔をこちらに向けてきたりしていた。そんな4人の位置から、ちょうど中間にあたる場所に、さっきは確認できなかった赤い人影を見つけた。いや、それは人影と呼んで良いのだろうか。ゆうに2m半はこえるような大きさで、幅も通常の人よりも数倍膨らんでいた。目をこらして見てみると、その影がゆらめいた。人であれば顔らしいものをゆっくりともたげて、これも人であれば目のような、そう虚ろな目のようなものを二つ、オレ達に向けてきた。そして、口元のようなものが、またゆっくりとゆがんだ。まるで、にぃっと笑っているかのようだった。オレは、背筋がすっと伸びるような感覚に襲われた。ポケットに戻しておいたスマートフォンが、振動した。男性二人からは、おそらく彼らのスマートフォンの通知メロディのようなものが聞こえてきた。それらに気を取られている瞬間はとても短かったはずだが、その間にいつの間にか赤い物体は消えていた。オレはホームをくまなく見渡して、先生の方を振り返った。先生は、いつの間にかオレの学生服のすそをつかんでいた。そのまま少しおびえたような目で、オレを見上げている。つかんでいる腕からかすかな振動が伝わって来るのは先生の震えかと思ったが、その腕にかけているバッグの中にしまわれている先生のスマートフォンが振動しているようだった。「先生、今の見た?」「ええ、あなたも見たのね。あれは、人だったのかしら?」「いや、オレには人に見えなかった。なんだか動物のようだったな。急に消えちまった?それより先生、スマートフォンにずっと通知が来てるみたいだ。」「ああ、ああ、そうね。ああ、ごめんなさい。」先生は通知に気付かなかったことに対してなのか、うっかりと生徒の学生服のすそをつかんでいたことに対してなのか分からない謝罪をしながら、バッグの中から自分のスマートフォンを取り出した。オレもずっと震え続けている自分のスマートフォンを、ポケットから取り出す。おかしいな。ずっと病院にいたから、通知は全て切っていたはずなのに。そう思いつつも、オレはスマートフォンの通知を開いた。開いたにも関わらず、振動はおさまらない。まるで、緊急地震速報のようだ。画面には、長文のメッセージが現れていた。「突然のメッセージ、失礼します。」から始まる文章には、オレが呪印に感染したこと、呪印とは何か、これから何らかの災いが降りかかること、災いを退けると願いが叶うことなどが書いてあった。なんだ、いたずらかと思ってスマートフォンのスイッチに手をかけた右手の甲に、オレは熱い痛みを感じた。「痛い!!」オレが声を発するよりも前に、先生の大きな声が聞こえた。ガラガラン。先生はスマートフォンを落としていた。オレは先生のスマホを拾い、渡そうとした。ありがとうと言いながら、受け取る先生の手の甲が青白く光っている。「先生、それ。」オレが言うと、先生はスマホを受け取らず、自分の手の甲をじっと見た。何これとつぶやく先生を見て、オレははっとして自分の右手の甲を見た。先生と同じように青白く光っている。よく見ると、それは勾玉のような紋様であった。その時、うわあああ、なんだこれは!という叫びが聞こえた。さっきの2人の男が、2人とも自分の手を見て怯えていた。
オレ達は、ホームの真ん中に集まった。そして、お互いの手の甲とスマートフォンを見せ合う。「これ、何かのイタズラでしょうか。」サラリーマン風の男が言うと、パーカーの男が答えた。「イタズラにしては、不思議なことが多過ぎる。それに、さっき見た化け物みたいなのも。あれ?お前、田中じゃね?」パーカーの男は途中で、サラリーマン風の男に声をかける。サラリーマン風の男は「たしかに、ぼくは田中ですが、あなたは?」と戸惑っている。パーカーの男が、自分の顔を指差す。「オレだよ、オレ。ほら、木下小で一緒だった宮田。」田中はああっと短く叫び、「潤哉か?いや、懐かしいな。まさか、こんなところで会うなんて。」と言ったが、すぐにオレと先生の方を向き直って、すみませんと言った。すると、先生が「田中君?ああ、田中君なのね。私、あなたの高校で教育実習をした中川です。」と言う。田中はさらに驚く。「な、中川先生。お、覚えてます。覚えてます。まさか、知り合い2人にいきなり会うなんて、こんな偶然。・・・」田中の言葉が止まり、その視線も宙を見据えたままになった。敏感になっているオレ達はそちらの方を向いたが、何もなかった。先生がどうしたの田中君?と言うのと、宮田がどうした田中?と言うのがピッタリ重なった。「いや、知り合い繋がりで思い出したんです。こういう怪奇現象に詳しい友達がいたことを。そいつに聞けば、何か・・・。」「それってさ、」と宮田が遮り、2人で指をさしあって言った。「鈴木!」「よし、早速、電話してみよう。」田中がスマートフォンで電話をかける。「ああ、鈴木か。田中だよ。夜遅くにごめん。良かった、出てくれて。ちょっと聞きたいことがあるんだ。」田中が今オレ達に起きていることの説明を始める。電話の相手の鈴木という人物は、本当に心当たりがあるらしい。ああ、うん、そうなのかという田中の相槌が多くなり、会話は長くなった。途中、上下線とも電車が一本来て、何事もなかったかのように数人の乗客が降りて行ったが、4人の中で乗ろうとする者はいなかった。この状況をそのままにして家に帰れるわけないよな。オレがそう思っていると、田中の電話が終わった。先生、宮田、オレが何も聞かず、田中を見つめる。田中はごくりと唾を飲み込むと、淡々と説明を始める。「鈴木は、色々知ってました。まず、この手の痣みたいなのは、先程のメールにもあった呪印と言うそうです。この呪印は、呪印を持つ者同士でないと、見ることはできないそうです。この呪印を持つ者は赤い影。おそらくさっき一瞬だけ見た化け物みたいなのでしょうか。そいつに襲われるそうです。今、端の方から赤くなっていますが、死の宿命が強くなると全部が赤くなるそうです。ただ、鈴木の話では、災いを退ける方法があるそうで、これから調べてくれると言ってました。」しばらく無言の時間が流れた。「一体、なぜ俺たちが?」宮田が呟くが、答えられる者は誰もいない。先生が、これからどうするかを相談しませんかと提案した。
とりあえずオレ達は、一度別れることにした。災いというのは不気味だが、いつ、どのように災いが襲ってくるのかが分からない。連絡先を交換して、何かわかったら伝え合おうということになった。お互い一人暮らしだという田中と宮田は、今日はここから、より近い田中の家に2人で泊まるらしい。まあ、さすがに今は独りだと心細いよな。オレはそう思いながら、中川先生を見た。オレの表情が、よほど心細く見えたのだろうか。先生は、「大丈夫よ。源太君を独りにはしないわ。先生が一緒に居てあげる。」と努めてにこやかに言った。いつの間にか下の名前で呼ばれていることに気づいたオレは、少しどきりとしながら、「でも、家族が心配するんじゃ?」と聞いた。先生は、「あら、私も一人暮らしよ。」とさらっと答える。なんだ、先生も心細いのか。オレは少しほっとした。さすがに女性の一人暮らしの部屋に上がり込むのは遠慮があったので、オレの家に2人で向かうことになった。「源太君の家って、立派ねぇ。」上がり框に腰掛けて、ブーツの紐をほどきながら先生が言う。「ああ、オレの家は、かなり前から続いている旧家らしくてさ。ただ広いだけで、よく見るとあちこちボロボロだけどな。それに小さい頃に両親が亡くなってるから、ばあちゃんと2人だと持て余すんだよ。」とオレは答える。答えながら電気のスイッチを探していたオレは、はたと動きを止めた。その気配を感じて、先生がおそるおそる、どうしたの?と尋ねてきた。オレは「あ、いや、ごめん。」と呟き、電気を点けてから続けた。「いや、オレの両親、通り魔に襲われて亡くなったんだけど、その時のことを何か思い出しそうになったんだ。」「辛い思い出があるのね。」先生がオレの肩に、手をかけてくれた。「本当に小さい頃のことだから、あまり覚えていないんだ。だから、大丈夫だよ。」とオレは心からそう言った。部屋はたくさんあったが、8畳の和室に布団を並べて眠ることにした。まあ、先生の方に抵抗がないなら、それで構わないんだけどさ。ばあちゃん以外の女性と同じ部屋に寝るなんて初めてだから、ちょっと緊張するな。なかなか寝付けなかったオレは、おそらくそのせいではない悪夢を見た。夢の中でオレは幼児だった。泣きながら、目の前で両親が殺されていく様子を見ていた。両親は切り刻まれながら、死んでいった。切り刻んでいたのは、赤い化け物だった。「源太、源太。」母親が叫んでいる。「源太、源太、源太君、源太君。」オレは汗だくで目覚めた。母親の声だと思っていたが、呼んでいたのは先生だった。先生は優しくオレの汗を拭いてくれている。「あ、あぁ、先生か。」「ああ、良かった。源太君、すごいうなされていたから。大丈夫?」「だ、大丈夫。だと思う。ゆ、夢だったのか。」「どんな夢だったの?」「両親が、さっき見た赤い化け物に殺されている夢。」「それって、、」「わからない。ただの夢かもしれないし、本当にあったことなのかもしれない。」オレは、先生に拭かれるがままの心地よさに任せていた。
翌朝、早くに宮田から電話があった。夜通し、田中と調べたところ、気になる動画を見つけたと言う。今から会えないかと聞くので、オレも先生も学校を休むことにして、2人にうちまで来てもらうことにした。「これだよ。」着くが早いか、宮田がパソコンを開いて見せたものは、会員制の動画サイトの中の一つだった。視聴回数は少ない。動画には、1人の軽そうな若者の男が映っていた。見たところ、20歳ぐらいだろうか。「ウェーイ!オレちょっと今、ヤバいことになってまーす。見て見て、この手の甲。ほら、青白く光ってるっしょ。って、見えない?だよね、みんな、見えないって言うんだわ。でもさ、ここにさ、勾玉みたいなデザインが確かにあるんだよね。実はさ、このデザインと一緒に来たメールによるとさ、じゅいんとか何とか言うらしいんだけど。呪いの印って書いて呪印ね。え?そのメールを見せろって?そりゃ、当然そうくるよね。でもさ、不思議なことに消えちゃったんだよ。オレは消してないよ。いや、嘘じゃねーって。まじ、信じてくれよ。そのメールの話だとさ、この呪印が刻まれると災いが降りかかってくるらしいんだわ。オレ、まじ、今こえーし。心細いんよ。」動画はここで終わっていた。宮田の説明だと、この若者はこの動画を配信するまでは、定期的に趣味のサーフィンの動画を配信していたらしい。そして、この動画の配信を最後に、配信をしていないらしい。「これだけ視聴回数が少ないということは、自作自演だと思われたんだろう。でも、オレ達には見えたよな?あの手の呪印が。」宮田の確認に、3人は頷く。その時、田中のスマホが鳴った。一瞬、全員がビクッとなる。
田中は不安と焦りで、スマホを一度取り落とした。「もしもし。あ、ああ、鈴木か。びっくりした。ああ、何かわかったのか?助かるよ。」どうやら電話の相手は、例の怪奇現象に詳しいという鈴木のようだ。進展があった風な話しぶりである。オレ達は、田中の方にぐいと体を傾けた。「なんだって?ああ、覚えてる。あの場所だろ?うんうん。」田中の顔が明るくなっていく。「ああ、すまないな、出張中なのに。ああ、また今度会おう。必ずな。」と言って、田中は通話を切った。「秘密基地だよ。秘密基地!」田中が唾を飛ばして、宮田に話しかける。「秘密基地?何のことだ?田中」「いや、ほら、木下小の裏にさ、ちょっと小高い山があったじゃん。」「ああ、裏山って呼んでたところな。」「あそこにさ、秘密基地作ったじゃん。」「・・・・。」「覚えてないか?あの木の根元だよ。」「あ、あ、ああ。あの駄洒落で。木下基地とか言ってたやつか!」「そう!」「あそこが、どうかしたのか?」「鈴木によると、あそこに呪いを打ち破る鍵になる手帳が置いてあるって言うんだ。」
木下基地の入り口は、生い茂った木で覆われ、わかりづらくなっていた。ようやく見つけて、這うように潜り込むと、中は意外と広かった。「ここは、元から小さいほら穴だったんです。」と田中が解説した。「それを、ぼくたちが見つけて、それぞれ自分の好きな物を置いて、あ、これ、懐かしいな。小学生の頃に流行ってたカードだ。あの頃は、こういうのが宝物だったよな〜。」田中が宮田に同意を求めると、宮田は宮田で当時の自身のテリトリーだったらしき場所から、色々な物を掘り出すのに夢中だった。オレと先生にしてみれば、2人の無駄な感傷など後回しにして、早く手がかりを見つけて欲しかったが、そうした気持ちがわからなくもない。黙って見守っていると、それとなく気づいた2人は、おそらく鈴木のテリトリーらしい場所を探し始めた。鈴木のテリトリーは、明らかに異質だった。オカルト系の本に始まり、怪しいマークの入ったノート類、お札や数珠など、禍々しいオーラを放つものばかりだった。「鈴木は明るい性格で、クラスでは人気者だったんです。でも、相当なオカルトマニアで、家族にもそのことを隠していたんです。ぼく達の前でだけは、こうした面を見せてくれてたんですよね。」がさごそと物をかき分けつつ、田中が言い訳をするように口を開いた。誰かが何かを尋ねたわけでもないのに、鈴木を庇うみたいな話し方に、田中が鈴木の人柄をとても好きなんだということが伝わってきた。「あ、これかな。」田中は一冊のノートをぺらぺらとめくった後、その表紙をみんなに見せた。
表紙には、「呪いについて」と子どもの字で書かれている。オレは、やや期待する気持ちが下がったのを感じた。こんな小学生の夏休みの自由研究みたいなノートに、どんな救いになるようなことが書いてあるというのか。しかし、気持ちと同じく視線を下げると、期待は逆に上向いた。その字の下には、絵らしいものがいくつか描かれていた。絵も下手くそだったので、その絵の一つがどうやら呪印のことだと検討がつくまで、しばらく時間がかかった。オレ達は田中の脇に集まり、田中がページを捲るのを急かした。数ページには、呪いの種類について書かれていた。その中に、呪印のページがある。呪印とは何か。呪印の色について。呪印の起こり。呪印による災い。呪印が消えかかると。そこには、オレ達が今知っている以上の情報はなかった。諦めずに、次のページへと読み進む田中。すると、呪印を退ける方法?とハテナマーク付きだが、オレ達の心を鼓舞するタイトルが書かれているページが見つかった。しかし、そのページの文字は読めなかった。「これって何かの暗号なんですか?」オレの問いかけに、田中が首を振る。「いいや、ぼくたちは確かに暗号遊びもしたけれど、こんな暗号を作ったことはないですね。潤哉は、見覚えあるか?」「いや、オレもないな。ちょっと検索してみるわ。」「これ、外国の字みたいに見えるけど、私の知っている範囲では、こんな文字を使っている国はないわね。」と先生が先生らしいことを言うと、田中が「おやっ。」と首を捻った。「この字、どこかで見たことあるぞ。たしか、、」と呟きながら、ノートをオレに預けて、自分のテリトリーをまた漁り始めた。
これだ、これだ、という声とともに、田中がTシャツを高く上に掲げる。Tシャツには、文字がびっしりと書かれていて、その文字はノートに書いてある字とよく似ていた。「これ、昔、鈴木がくれたんですよ。呪い除けにって。その時は、オカルトにあまり興味なかったし、なんだか怖かったから、お礼だけ言って、しまったんですよね。これって、効果あるのかな〜。」田中がTシャツをまじまじと眺めていると、宮田がパソコンの画面を見ながら、わかったぞと声をあげる。「その字は、仏教をもとにした真言という文字だ。」「真言?なんか聞いたことあるな。」オレがぼそっと漏らすと、3人が食いついた。「本当なの?」「本当か?」「本当ですか?」オレはみんなに見つめられて、少し自信を失いつつも答えた。「あ、ああ、うちは旧家なんだけど、たしか代々真言にまつわる何かを信奉していたという話を聞いたことがあるんだ。たぶんだけど。」最後の方は、聞き取れないぐらいの小ささになっていることが、自分でもわかった。改めて、オレの家に戻り、手分けして家探しした。ばあちゃんに連絡を取れば簡単かもしれなかったが、余計な心配をかけたくないという気持ちが優先した。田中も宮田も会ったばかりの人物だったが、警戒するつもりはなかった。オレ自身は盗られて困るようなものはないし、何よりこんな状況化で金目の物なんかに目はいかないだろう。そして、オレらには仲間意識が生まれていた。真言に関わる物は、なかなか見つからなかった。全部の部屋を見終わり、30畳ほどの広い和室に4人が揃った。玄関から差し込む夕日が、それぞれの影を作っている。しばらくの沈黙の後、先生が口火を切った。「見つからなかったわね。」「おかしいな。絶対に、あると思うんだけど。」「あれは、どうかしら?」先生が、和室の床の間を指差す。「あそこは、さっき調べました。でも、念のため、もう一度調べてみましょう。」田中の優しい口調に誘われるように、オレ達は床の間に近づいた。
床の間には、掛け軸が掛けられており、刀が一振り飾られていた。「この刀、抜いてみませんか?」田中の提案を、オレは視線だけで肯定した。田中が刀を台から持ち上げて、丁寧にこよりを外す。田中は鞘回りを確かめた後に、オレの前に刀を突き出した。「やはり、ぼくがやるより、君がやった方がいいでしょう。」田中から刀を受け取り、おれはつかに手をかけて、ゆっくりと引き抜いた。背後から伸びるように差し込む、赤い太陽の光を、刀身が反射する。抜き切ると、刃先からびっしりと文字が書かれていた。「これは、、」オレの言葉を、そのまま田中が引き取る。「真言ですね。」その時、和室の周りに巡らされている障子が、カタカタと一斉に鳴り始めた。ひょおおおお。風が音を立てて、室内に吸い込まれてくる感じがした。ハッと宙を見渡す先生、宮田、田中、オレ。さっき日没したばかりのははずが、外も室内も真っ暗になっていた。ずず、ずず、ずずず。障子の向こう側の渡り廊下から、何かを引きずるような音が近づいてくる。そして、全ての音が止んだ。静寂は、どのぐらいの時間であったろうか。1分、2分、いや、10秒に満たなかったかもしれない。その間、誰も動かなかった。当然、動けなかったのだ。さっきまで夕日が覗いていた西側の開かれた障子から、顔を出したモノがいた。あの赤い化けモノだった。化けモノが笑う。に、た、あ。そう、ゆっくりと笑った。
化けモノは、顔だけを覗かせたままだ。オレはその顔のぽっかり穴が開いたような目から、自分の目を離せなかった。横を向くこともできないので確かめようがなかったが、他の人達も同様の状況にあるに違いなかった。額から冷や汗が滴るのを、やけにはっきりと感じる。やがて、化けモノがゆっくりとその体を現した。駅のホームで見た時よりも、ひと回り大きく感じた。オレは強張る体に無理やり命令をして、目だけを動かして、右手の甲を見た。勾玉のほとんどが、赤くなっていた。視線を戻すと、化け物はすでに全身を、和室の入り口に現していた。ずず、ずず、ずず、ずず。畳をこすりながら、ゆっくりとこちらに向かってくる。体が動かない。声が出ない。呪印を見るという無駄な行為はできたのに、なぜ動けないのか。うわああああ!田中の叫び声で、体のスイッチが入った。田中を振り向くと、両手で鈴木からもらったという真言Tシャツを握りしめていた。田中がTシャツを広げて、化けモノに向けた。!?明らかに化けモノがひるんだ。少なくとも笑みは消えた。それに気づいた田中は、その見た目からは想像もつかない勇気を見せた。Tシャツを広げたまま、自ら化けモノへと向かっていったのだ。右足、左足、また右足。一歩、また一歩と前に出る。う、う、う。穴のあいた目の化けモノの顔からは表情を読み取り辛かったが、どうも狼狽しているように見える。うめきながら、手で追い払うような仕草をしている。田中は化けモノまで1mのところまで近づくと、ぼそっと何かをつぶやき、宙に跳んだ。振り回される両手を掻い潜り、田中の体が赤い化けモノの頭に抱きついた。そして、さっと離れる。化けモノの顔を覆うように、真言Tシャツが巻きつけられていた。手で宙を切り、もがく化けモノ。
「今だよ、小室山君。その刀で貫くんだ。頼む!」田中の言葉に突き動かされたように、オレは刀を握りしめて前へと出た。「気をつけて、源太君。」後ろから、先生の声が聞こえた。けれども、もう一歩が出ない。くそっ!その時、さっき田中がつぶやいていたことが何となく想像できた。「勇気をくれ!ばあちゃん!」オレは改めて両手で刀をつかみ、刃先を真っ直ぐに化けモノに向けて、勢いよく駆け出した。ズブリ。にぶい音。にぶい感触。血とは似つかない黒いものが、化けモノの体から吹き出す。低い、しかし長いうめき声。化けモノの腕の動きが、止まった。化けモノの膝が崩れ落ちるのに合わせて、オレも膝を折った。オレが刀で、化けモノが倒れ込むのを支えるような形になった。オレはつかを握りしめたまま、顔だけで後ろを振り返った。オレが笑ったのを見て、笑い返す先生。だが、その笑顔はすぐに凍りついた。「危ない源太君!」オレが慌てて前に向き直ると、刀を突き立てた場所から、化けモノの体が裂けていく。その裂けた部分は、オレの体の左右に大きく膨らみ、まるで大きな口のごとくオレを取り込もうと蠢いた。その動きは素早く、オレの体は半分化けモノの体に飲み込まれた。間一髪のところで、オレの左手を取ったのは一番近くにいた田中だ。すごい力で、引きずり込まれるオレを、必死で止めようとしてくれている。「田中さん、このままでは、あなたも危ない。離れて。」「何を言うんだ、源太君。この手を離したら、鈴木に笑われるよ。」「ノガサナイヨ」止まっていた化けモノの腕が伸び、田中の体を掴む。「源太君!源太君!」田中と共に、暗闇に飲み込まれてゆくオレの目に、駆け寄ろうとする先生とそれを止める宮田の姿が見えた。
その病室の壁は綺麗なベージュ色で、中をそよ風が吹き抜けている。白いレースカーテンに半分覆われた、ベッドが1つ置いてあった。そよ風に、レースカーテンが揺れる。入り口のプレートには、「小室山きん」と書かれている。少しだけ起こされたベッドの上に横たわる白髪の上品な雰囲気のある女性が、脇に座って泣きじゃくっている女性に優しく声をかけている。泣きじゃくる女性は、それでも泣くのを止めない。止められないというより、止める気がないようだった。嗚咽まじりに、言葉を絞り出す。「そのまま源太君は、田中君と一緒に、それに飲み込まれてしまいました。そして、2人を飲み込んだそれは、そのまま黒い固まりとなってしまいました。嘘のように思われるかもしれませんが、全て本当の話です。おばあさま、本当にごめんなさい。私が身を挺してでも、源太君を守るべきだったのに。」白髪の上品な女性は微笑んで答える。「いいんですのよ、先生。源太はね、とても優しい子だから、あなたが傷つくのは見たくなかったと思うんですのよ。それよりも、よく話してくださいましたね。とても勇気がお要りになったことでしょう。」「おばあさま・・・。」手を膝の上にそろえて、中川先生が座ったまま頭を下げると、白髪の女性はベッドから手を伸ばしてその手を取り上げた。2人は見つめ合う。「あなたのような心の美しい方に見とられたなら、源太は幸せでした。うっ、、」「大丈夫ですか?」中川先生は初め、白髪の女性が無理に体勢を変えたため、病気の体に負担を与えたものかと思った。けれども、その見当は外れていた。「ま、まさか、そんな。おばあさま、そ、その手の印は、、」白髪の女性は、中川先生の見つめている自分の右手の甲にあるものに気づいた。「おや、まあ、これが先ほど話されていた呪印ですか。源太のがうつってきたのかしらね。」「ああ、そんな。これで、おばあさまにも災いが降りかかってしまうんでしょうか?」「いいんですよ、先生。そんなに心配なさらないで。だって、これで源太の復讐ができるわ!」その時の白髪の女性の瞳は、とても老人のものとは思えないほど燃え上がっているように、中川先生には見えた。(完)