〝古文の読解〟② | 好文舎日乗

好文舎日乗

本と学び、そして人をこよなく愛する好文舎主人が「心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつ」けた徒然日録。

橋本治は人麿の「あしびきの」の歌について、次のように述べている(ちくま文庫172174頁)。


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(前略)有名なこの歌を見ると、「ほんとになに言ってるんだかな」という、いたって幸福な気分になります。「あしびきの」は、「山」にかかる「枕詞」で、「山鳥の尾のしだり尾の」は、「長い」にかかる序詞なんですね。つまり、「あしびきの山鳥の尾のしだり尾の」には、なんの意味もない。「山鳥の尻尾は長くたれている-だから〝長い〟」、ただそれだけなんです。この歌の意味は、ただ「えんえんと長い夜を一人で寝るのか……」だけです。なんだかわけのわからない言葉をえんえんと読まされてきて、意味はそれだけ。「え、そんな楽な解釈でいいの?」と、私は高校生だった昔に、喜びました。あまり勉強が好きじゃなかったからです。

「人間の感情を素直に歌い上げる」はずの『万葉集』の中に、こんな冗談みたいなものが入っているなんて、なんだかとても嬉しくなりました。「あしびきの山鳥の尾のしだり尾の」だけで前半を終わらせてしまうなんて、「内容空疎の技巧本意の極み」みたいなもんでしょう? それが「日本文化を代表するようなものの1つ」って、なんだか嬉しくありません?

「かも寝む」の「かも」は、辞書や文法の本を見ると、ややこしいことがいろいろと描いてありますが、要は、「その下にくる言葉を強める」です。つまり、「かも寝む」とは、「寝るのかょォ」ですね。「こんな長い夜を一人で寝るのかょォ」が、日本を代表する天才的歌人・柿本人麻呂の「有名な作品」です。

「ああ、やだやだ」という気持ちが強いんでしょうね-それだから「かも寝む」と強めてるんですね。夜の長さにうんざりしている。そうすりゃ、「あしびきの山鳥の尾のしだり尾の」という、わけのわかんないつぶやきも出るでしょうね。だから、この歌は、「うんざりするような夜の長さを巧みに表現している」になりますね。きっと、誰もこんな〝解釈〟はしないでしょうけどね。

でも、「(また)一人で寝るのかょォ=かも寝む」は、「そういうブツブツが出てくる気分」じゃないでしょうか? 〝表現〟とはそういうものなんですね。「あしびきの-」以下の前半を「訳さないでいい」にしちゃうと、そういう「独り寝にまつわるうっとうしさとまぬけさ」が見えなくなっちゃいますね。「表現者」というものは、あんまり意味のないことはしないもんなんですよ。むずかしく言えば「無意味の中に意味がある」なんですが、自分の中にある「あーあ……、退屈だ」という気分を理解していたら、「よし、それをそのまんま歌にしよう」ということにはなるでしょう? この歌の前半は、「意味のない言葉をえんえんと並べるほど長く退屈だ」ということをちゃんと表現している、重要なものなんです。

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まず初歩的なことから。橋本は「『あしびきの』は、『山』にかかる『枕詞』で、『山鳥の尾のしだり尾の』は、『長い』にかかる序詞」だと言うが、初句から三句までが「ながながし」を導く序詞である。ここでは序詞の中に枕詞が含まれている例。次に、橋本は序詞には「なんの意味もない。(中略)『内容空疎の技巧本意の極み』みたいなも」のであると言い、続けて、「『あしびきの-』以下の前半を「訳さないでいい」にしちゃうと、そういう『独り寝にまつわるうっとうしさとまぬけさ』が見えなくなっちゃいますね。『表現者』というものは、あんまり意味のないことはしないもんなんですよ。むずかしく言えば『無意味の中に意味がある』なんですが、自分の中にある『あーあ……、退屈だ』という気分を理解していたら、『よし、それをそのまんま歌にしよう』ということにはなるでしょう? この歌の前半は、『意味のない言葉をえんえんと並べるほど長く退屈だ』ということをちゃんと表現している、重要なものなんです。」とわかったようなことを述べている。「『無意味の中に意味がある』」などと彼一流の「言葉遊び」に興じているが、やはり序詞に積極的な意味を認めていないという点で、序詞に「なんの意味もない」ことを繰り返し述べているに過ぎないのである。



明日は、「序詞」というものの性格を明らかにしながら、橋本の誤りを正してみたい。