そういえば、小西甚一には『古文の読解』(旺文社 1962.6 → 改訂版1981.10)もあったことを思い出した。僕が高校時代に読んだのは、もちろん改訂版の方である(初版本を伊勢市立図書館2階のレファレンス室で見つけた時には驚いたが、考えてみれば、『万葉集』研究の第一人者であった澤瀉久孝博士と並ぶ郷土の誉れなのだから当然である。いつか借り出して、改訂の跡を辿ってみたい)。『古文研究法』『国文法ちかみち』に較べるとわかりやすく、その内容は、文学史・古文常識、語彙・文法、解釈・鑑賞の諸分野にわたる、正に〝教養の書〟である。生徒に薦めたいのだが、あいにくと絶版。良質の参考書を持たない今の受験生は気の毒である。藤井貞和『古文の読みかた』(岩波ジュニア新書 1984.5 →『古典の読み方』講談社学術文庫 1998.2)や田中貴子『古典がもっと好きになる』(岩波ジュニア新書 2004.6)があるが、ちょっと違う。また、田中が「おすすめしたい」(前掲書35頁)本と紹介している橋本治の『ハシモト式古典入門-これで古典がよくわかる-』(ごま書房 1997.11 →『これで古典がよくわかる』ちくま文庫 2001.12)などは言語道断である。橋本は「まえがき」で「あまりにも多くの人たちが、古典とは関係ないところにいて、はじめから『関係ない』と思っています。古典はそんなものでしょうか? 古典があわないままの人たちに、『古典とはこんなものか』と思っていただきたくて、私はこの本を書きました」(ちくま文庫 15~16頁)と言っている。しかし、僕に言わせれば、橋本の本を読んで、「古典があわないままの人たちに、『古典とはこんなものか』と思」われてしまっては困るのである。橋本の解釈がいかに恣意的で誤っているかについては、かつて述べたことがある(拙稿「桜はどこに咲いているか?」(『好文木』38号 2000.1)。
橋本は、後鳥羽院の歌、「桜咲く遠山鳥のしだり尾のながながし日もあかぬ色かな」(新古今集・巻二・春下・99)について、次のように述べている。
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「桜が咲いている、一日中ずーっと眺めていても飽きないな」という歌です。(中略)私は、この歌を見ると、「後鳥羽上皇という人はすごい人だな」と思います。悠然と構えて、一日中桜の前にすわってるんですよ。「いやー、いいなー、飽きないなー」と。こんなことできます? その、見事な桜を前にした〝感想〟っていったら、ただ「飽きないなー」だけなんですよ。この歌は、それしか言ってないんですから、常人にはちょっと真似のできない芸当です。
『万葉集』の「あしびきの山鳥の尾の―」の人は、その「独り寝の夜の長さ」を持て余してるんですよ。でも、この上皇さまは、持て余してなんかいない。悠然とすわってます。そんな、余裕は、常人にはないんですよ。おまけに、単純にしてのんききわまりないこの歌には、ちょっとだけ〝技巧〟も入ってるんです。
柿本人麻呂は「あしびきの山鳥」ですが、後鳥羽上皇の歌は「桜さく・遠山鳥の」です。後鳥羽上皇の目の前では、桜が咲いてるんですが、山鳥は「遠い」んです。後鳥羽上皇は、当時の都で一番えらい人ですから、立派な屋敷の庭に桜の大木を植えさせて1人で眺めるって事は可能です。山鳥がいるのは「山の中」なんですから、後鳥羽上皇のいるところからは「遠い」――つまり、「あしびきの山鳥の尾のしだり尾の」を「遠山鳥のしだり尾の」に変えただけで、「ただ長い」というのんきな雰囲気が、さらに豪華になるんです。寂しい山の中からは「遠い」んですからね。柿本人麻呂の歌って、違うでしょう? 貧乏な一人住まいのすぐ裏に山があって、そこに寂しい山鳥がぼさーっとしてるみたいでしょう? 「あしびきの」を「桜咲く」に変えて、そこに「遠」の一字を持ってきただけで、雰囲気はガラッと変わるんです。それが〝技巧〟なんですね。
(ちくま文庫 175~176頁)
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あまりのバカバカしさに、怒りを通り越して呆れてしまう。秦の始皇帝なら絶対焚書を命じたであろう。このような本を相手にするのも大人気ないようであるが、学参の棚に並べている本屋も多く、蒙昧な高校生が惑わされる虞は多分にある。次回は拙文(「桜はどこに咲いているか?」)を用いて、〝古文の読解〟について考えてみたい。