読売新聞(2007.5.10)「中部発」の記事「中日新聞に禁煙団体抗議/タクシー巡るコラム 『喫煙は至福』と持論」を引く。
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名古屋地区で今月1日から始まったタクシーの全面禁煙について、中日新聞社(本社・名古屋市)の常務・編集担当の小出宣昭氏(62)が4月29日の朝刊で否定的な意見を掲載したところ、「たばこの害をどう考えているのか」などの抗議が同社に相次いでいることが9日、わかった。NPO法人「日本禁煙学会」(東京)も小出氏に抗議文を送付した。
問題の記事は、小出氏のコラム「4月を送る」。毎月、1が月間の主要なニュースについて署名記事で論評するコーナーだ。
小出氏は、自ら愛煙家であることからコラムで、「中日新聞では少数民族『スー族』(吸う族)」とし、「多数民族『スワン族』(吸わぬ)族の方々には申し訳ないが、(喫煙は)至福の瞬間なのだ」と記した。その上で、タクシーの全面禁煙について、「決め方にいささかの薄っぺらさを感じる」と時論を展開。「全車禁煙という一律主義に、スー族は本能的な危険を感じる」と書いた。
これに対し、中日新聞社には9日までに抗議のメールや手紙が40通届き、「喫煙を正当化するな」などの電話もあるという。
禁煙学会の作田学理事長は、「自分勝手な論理に終始した記事。影響力のあるメディアとして、あまりにお粗末だ」と話す。
読売新聞の取材に小出氏は、「禁煙者と喫煙者が共存していくために、多様な選択肢が必要だということを書いたつもりだが、配慮を欠いた部分もあった。文章を訂正する必要はないと考えているが、反省すべき点は素直に反省したい」としている。
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「日本禁煙学会」なるものが存在することにまず驚いた。そして、理事長の「自分勝手な論理に終始した記事」というコメントに呆れてしまった。これでは最初から議論にならない。議論にならなければ、それこそ「自分勝手な論理に終始し」てしまい、およそ学問的ではなくなる。そうであれば、「学会」などと名乗るのは「僭称」であろう。
小出さんは「禁煙者と喫煙者が共存していくために、多様な選択肢が必要だということを書いたつもりだ」という。本人も認めているように、「配慮を欠いた」文章であるために、嫌煙家の感情を逆撫でするところはあるが、悪意は感じられない。少々軽率なだけであろう。それは前引の「漢字とサミット」や「かぐや姫の秋」からも容易に理解できるだろう。小出さんの反省すべきはその点のみである。それよりも、僕が問題だと思うのは、前掲の理事長のコメントや「喫煙を正当化するな」という抗議の方である。僕は「スワン族」である。マナーを知らぬ「スー族」には怒りを覚えるし、平山論文の有意性は失われたと言われても、受動喫煙に対する恐怖は抱いている。しかし、喫煙を「不当」であるとは思わない。喫煙は(将来的にそうなることはあるにしても、現在はまだ)「違法」ではない。「違法行為」でないものに対し、「正当化するな」などと言うのは、正に「禁煙ファシズム」ではないか。
「ファシズムへの志向というものは、あながち権力者のどす黒い野心のうちにのみ生まれるとはかぎらない。ごく健全で心やさしい庶民の胸のうちにこそ芽生えるものだ」と述べ、「多様化とか異質性とか、価値の多元性という言葉は、現代社会でもっとも広く愛好される標語だといえるだろう。それにもかかわらずというべきか、あるいはそのゆえにというべきか、現代人の心のなかには、およそ正反対の画一性への強い執着が巣くっているようである」と喝破したのは山崎正和(「ソフトファシズムの時代を排して」[『諸君!』文藝春秋 1993年7月号→『世紀末からの出発』文藝春秋 1995.10])である。禁煙学会の抗議文を読んだ時、僕はこの山崎の言葉を想起した。次回はその抗議文を取り上げる。