熱心、いい人、当たり前 | 好文舎日乗

好文舎日乗

本と学び、そして人をこよなく愛する好文舎主人が「心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつ」けた徒然日録。

「熱心な先生」と褒めてくれる先輩教師や保護者がいる。「いい先生」と慕ってくれる生徒もいる。でも、大村はま(『灯し続けることば』小学館 2004.7)のことばに触れてからは、素直に喜べない。


《教師は一個の職業人です。「聖職」という方もいますが、私はその名に隠れて精神主義に偏っていく態度には賛成できません。心さえあればいい、熱意さえあればいいというわけではないと思うからです。熱心、結構です。いい人あたり前です。悪い人であったら、たまったものではありません。/なのに、教師の世界というのは、いろいろな職業と比べても、「いい人」ということがかなり幅をきかせているように思います。他の社会では、仕事の能力と切り離して「いい人」をここまで尊重しないのではないでしょうか。いい人であっても、やはり業績を上げて、仕事をちゃんとやれる人でないと、価値を認められないのではないでしょうか。/教師という職業の拠って立つものは何か。子どもに1人で生きていける力をつけること、そのための技術を持っていることでしょう。それを忘れた「いい人」ではちょっと困るのです。》(1213頁)

《熱心と愛情、それだけでやれることは、教育の世界にはないんです。子どもがかわいいとか、よく育ってほしいとか、そんなことは大人がみんな思っていることで、教師だけのことではありません。そんなものを教師の最大の武器のように思って教師になったとしたら、とてもやっていけないと思います。/教師としては、人を育てる能力、教師の教師たる技術を持っていなければ困ります。たとえば、お話ひとつとっても、魅力的に話せる、騒いでいた子どもが思わず耳を傾けるようなお話ができなくてはならないのです。》(2223)

大学時代、何人もの教授から「よく勉強する学生だ」「熱心な学生だ」と言われた。「君の勉強量は本学随一だ。院生よりも多い」とも。しかし、少しも嬉しくはなかった。「よくできる学生だ」「君の力量は本学随一だ。院生よりもできる」と言われたい、そう思って勉強を続けた。しかし、教授はなかなかそう言ってはくれない。本代を浮かせるために、3週間カレーヌードルを食べ続けたことがある。黄色い汗が出た。血尿が出た。涙も出た。僕の食生活を心配したコンビニのおはちゃんが、パンをくれた。喜び勇んで帰宅し、食べようとして、賞味期限を過ぎていることに気がついた。一瞬躊躇したが、空腹には勝てなかった。「期限切れも3日までは大丈夫」ということを体験的に学ぶことができた。

そうやって勉強を続けているうちに、院生の間で僕の名前が話題に上るようになった。ある日、市バスで乗り合わせた院生から「先生方が学部生なのによくできるって褒めてたよ」と言われて驚いた。そして、更に「大学の先生は本人の前では口が裂けてもできるとは言わない。『本学随一の勉強量』なんて最大級の讃辞だよ」と聞かされ、腰が抜けそうになった。

当然のことではあるが、先輩教師や保護者、生徒たちは大学の先生と同じではない。もし、僕が彼らから「熱心な先生」「いい先生」としか言われないのだとすれば、それは僕が力不足であることの証明でしかないのだ。