(56)第6篇超過利潤の地代への転化 第45章、絶対地代① | kmhamのブログ

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『資本論』学習会レポート 『資本論』・第3巻・第6篇・超過利潤の地代への転化
第45章、絶対地代①
 (⑪p222~) (資本論学習会 2014.4.16開催分)

・差額地代の前提

・最劣等地は地代を支払わない。又は、地代を支払う土地は、ただその生産物では個別的生産価格が市場調節的生産価格よりも低く、従ってそこに地代に転化される超過利潤が生ずるような土地だけだという事である。注意しておきたいのは、そのものとしての差額地代の法則は、この前提が正しいか否かには全く関わりがない事である。(⑪p222)
・一般的な市場調節的生産価格をPとすれば、Pは最劣等地Aの生産物ではその個別的生産価格と一致する。即ち、この価格は、生産に消費された不変資本及び可変資本・プラス・平均利潤(=企業者利得・プラス・利子)を償うのである。地代は、この場合にはゼロである。(⑪p222)
・Aのすぐ上の土地種類Bの個別的生産価格はP’で、P>P’である。即ち、Pは、土地部類Bの生産物の現実の生産価格よりも多くを償う。ここで、P-P’=dだとすれば、P’を越えるPの超過分dは、この部類Bの借地農業者があげる超過利潤である。このdは、地代に転化されて、土地所有者に支払われなければならない
。・・・以下同様にしてそれぞれ(2d、3d・・・)が地代に転化される。(⑪p222)
・今仮に、土地部類Aについて、地代がゼロで、その生産物価格がP+0だという前提は間違いだとして、Aも地代rを支払うとする。この場合には次の2つの事がでてくる。(⑪p223)
・第一に、部類Aの土地生産物価格は、その生産価格によっては調節されないで、それを越える超過分を含んでおり、P+rだという事である。何故なら、正常な資本主義的生産様式を前提すれば、借地農業者がこのrを支払いうるのは、ただ、彼の生産物が生産価格よりも高く売られ、従って、もし彼がこの超過分を地代の形で土地所有者に引き渡さなくてもよければ、それは彼に超過利潤をもたらすであろうという事によってのみである。(⑪p223)
・その場合には、市場内の全ての土地種類の全ての生産物の調節的市場価格は、資本一般がどの生産部面でもあげる生産価格、即ち、費用・プラス・平均利潤に等しい価格ではなく、それは生産価格・プラス・地代、P+rであって、Pではないであろう何故ならば、部類Aの土地生産物の価格は、一般に、調節的一般的市場価格の限界、即ち、総生産物が供給されうる価格の限界を表しており、又その限りでこの総生産物の価格を調節するのだからである。(⑪p223)
・それにもかかわらず、第二に、この場合には、土地生産物の一般的価格は根本的に修正されるだろうとはいえ、差額地代の法則は決してこれによって廃棄されてはいないであろうなぜなら、部類Aの生産物価格、従って又一般的市場価格がP+rならば、部類B,C,D、等々の価格もP+rであろうからである。(⑪p224)
・しかし、部類B'では、P-P’=dなのだから、(P+r)-(P’+r)もやはり=dであり、C’では=2d、D’では3dであり、その他も同様であろう。だから、差額地代は相変わらず同じで、同じ法則によって規制されるであろう。とはいえ、地代は、この法則にはかかわりのない一要素を含んでいるであろうし、土地生産物の価格と一緒に、或る一般的な増加分を加えられているはあろうが。(⑪p224)
・従って、豊度が最も低い土地種類の地代がどうなっていようと、差額地代の法則はそれには関わりがないだけではなく、更に、差額地代そのものをその性格に即して把握する唯一の仕方は、土地部類Aの地代をゼロと仮定してみる事だということになる。即ち、Aの地代がゼロであるか、ゼロより大きいかは、差額地代の考察ではどうでもよい事なのである。(⑪p224)
・(⑪p226)今では、借地農業者は、たとえ地代は支払えないにしても、資本の平均的な価値増殖諸関係に従って、資本を土地種類Aに投下する事ができるという前提からは、部類Aに属するこの土地が今そのまますぐに、借地農業者の自由かってになるという結論は出てこない。借地農業者は地代さえ支払わなければ自分の資本を通例の利潤で価値増殖する事ができるという事情は、土地所有者にとっては、自分の土地をタダで貸してこの取引相手に対しては無償信用を開始する・・・という理由には決してならないのである。まさにこの土地所有の存在こそは、土地への資本投下に対する、又土地での資本の任意の価値増殖に対する制限をなしているのである。(⑪p226)
・しかし、土地所有の独占、資本の制限としての土地所有は、差額地代では前提されている。何故ならば、この土地所有がなければ、超過利潤は地代に転化されないであろうし、借地農業者ではなく、土地所有者のものにはならないであろうからである。そして、制限としての土地所有は、差額地代としての地代がなくなるところでも、即ち、土地種類Aでも、やはり存続するのである。
(⑪p227)
・資本主義的生産が行われている国で地代を支払わないでも土地への資本投下が行われうる場合を見れば、そこに見出すのは、全て、土地所有の例え法律上のではないにしても、事実上の廃止を含んでいるという事であろう。とはいえ、この廃止は、ただ全く特定な、その性質上偶然的な事情のもとでしか行われ得ないのであるが。(⑪p227)
・第一に、土地所有者自身が資本家であるか又は逆の場合。この場合、土地種類Aから、生産価格を打ち出すのに足りるだけ市場価格が上がりさえすれば、彼は自分の地所を自分で耕作する事ができる。何故か?彼に対しては、土地所有が彼の資本投下に対する制限をなしていないからである。・・・この様な場合は実際に現れる、とはいえ、ただ例外として現れるだけである。土地の資本主義的耕作は、機能資本と土地所有との分離を前提するのであるが、全く同様に、それは原則として土地所有の自己経営を排除するのである。(⑪p227)
・第二に、1つの賃貸地をなしている複合地の中には、市場価格の与えられた高さでは地代を支払わない、従って事実上はタダで貸されている個々の地所もあるかもしれないが、土地所有者からはそうは見られない、というのは、彼の眼中にあるのは、貸した土地の総地代であって、その土地の個々の成分の特殊地代ではないからである。(⑪p228)
・第三に、借地農業者は、同じ借地に追加資本を投下して得られる追加生産物が現在の市場価格では借地農業者にただ生産価格を与えるだけで、彼の為に通例の利潤をあげはするが追加地代の支払を可能にはしなくても、このような追加投資をすることができる。このような場合には、彼は土地に投下した資本の一部分については地代を支払うが、他の部分については支払わない。しかし、この想定は問題を解決するものではない。何故なら、借地契約が続いている間は、土地への彼の資本投下に対する土地所有の制限はなくなっているからである。(⑪p230)
・土地Aの地代は穀物価格上昇の単純な結果ではなく、逆に、最劣等地でもおよそその耕作が許される為には、地代を生まなければならないという事情こそは、この条件が満たされうる点まで穀物価格が上がる事の原因であろう。(⑪p233)
・差額地代に特有なことは、土地所有は、ただもしそれがなければ借地農業者がポケットに入れるであろう超過利潤を、そしてある種の事情の下では彼の借地契約の継続中は実際に彼がポケットに入れている超過利潤を、捕まえるだけだという事である。土地所有はこの場合には、この価格成分又はその前提である価格上昇を作りだす原因ではない。(⑪p234)
・これに反して、もし最劣等地Aが-その耕作は生産価格を上げるとしても-この生産価格を越える超過分即ち、地代を生むまでは耕作されえないとすれば、土地所有は、この価格上昇の創造的原因である。土地所有そのものが地代を生んだのである。(⑪p234)
・一般に、-穀物価格が生産価格によって規制されるという前提の下で-土地部類Aは地代を支払わない、という場合には、地代とはこの語の範疇的な意味での地代である。もし、借地農業者の支払う借地料が、彼の労働者の正常な賃金とか彼自身の正常な平均利潤とかいうものからの控除をなしているならば、彼が支払うのは地代ではなく、彼の商品の価格の中で労賃や利潤と区別される独立の成分ではない。(⑪p235)
・これは実際には絶えず現れる事である。ある国の農村労働者の賃金が一般的に労賃の正常な平均水準より低く押しさげられ、従って労賃からの控除、労賃の一部分が地代に入って行く限り、これは最劣等地の借地農業者にとっても例外をなすものではない。最劣等地の耕作を可能にするその生産価格そのものの中で既にこの低い労賃が1つの構成項目なしているのであり、従って生産物を生産価格で売ることは、この土地の借地農業者にとっては、地代を支払うことを可能にしないのである。(⑪p235)
・資本の投下場面としての土地を土地所有が制限している所では、土地所有は土地生産物の価格や地代にどのように作用するかを研究するのが眼目だとすれば、農業での資本主義的生産様式もそれに対応する土地所有形態も存在せず、およそ土地所有が事実上は存在しないような自由な、ブルジョア的植民地について語ることは、全くばかげた事であるが、リカードは地代章の中でそれをやっているのである。(⑪p237)
・資本投下は土地所有者の為に地代を生まなければならない。彼は、彼に借地料が支払われうるようになった時、初めて賃貸しするのである。だから、市場価格は、生産価格を越えてP+rまで上がって土地所有者に地代が支払われうるようになっていなければならない。土地所有は賃貸しされなければ無価値なのだから、市場価格が生産価格よりもわずかばかり高くなるだけでも、新たな最劣等地を市場に投ずるのに足りるのである。(⑪p238)
・そこで次の事が問題になる。豊度の差からは導き出せない最劣等地の地代があるという事から、土地生産物の価格は必然的に普通の意味での独占価格だとか、その価格には租税が入るのと同じ形で地代が入るのであって、ただ国家に代わって土地所有者が租税を取り立てるだけとかいう事になるであろうか?-決して必然的にそうはならない。このような主張は、ただ商品の価値と商品の生産価格との相違がこれまで理解されていなかったからである。(⑪p239)
・もしある生産部面の資本構成が社会的平均資本の構成よりも低い場合には、その生産物の価値はその生産価格よりも高くなければならないなぜなら、この生産価格は資本補填・プラス・平均利潤に等しく、この平均利潤はこの商品の中に生産されている利潤よりも低いからである。社会的平均資本によって生産される剰余価値は、このように構成の低い(農業)資本によって生産される剰余価値よりも小さい。ある投下資本の構成が社会的平均資本の構成より高ければ、自態は逆になる。この資本によって生産される商品価値は、その生産価格よりも低いのであって、最も発達している産業の生産物では一般にそうである。(⑪p240)
・本来の農業では資本の構成が社会的平均資本の構成よりも低いとすれば、この事は、生産が発達している国々では農業は加工工業と同じ程度には進歩していないという事を表しているであろう。
(⑪p241)
ただこの前提の下でのみ農業生産物の価値はその生産価格よりも高くあり得るという事は、理論的には動かないのである。(⑪p242)
以上、第6篇超過利潤の地代への転化 第45章、絶対地代① 了。